2003 10/25 21:45
Category : 日記
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆[ 主の木々は樹液に満ちています。] 詩篇104:16 英訳
『主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。』 新改訳聖書
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。
活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。
そこにいのちがなければならない。
聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。
そうでないと私たちは主の木となることはできない。
単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。
私たちは神のいのちに満たされていなければならない。このいのちは神秘である。
私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、
どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。
そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。
聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。
そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、
神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。
根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。
私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。
クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。
クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。
常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。
信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。
しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。
彼は常に神のために働いているのではない。
しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、
その徳をその歩みと日常の会話において表す。
もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。
その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。
内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。
◆[ 主の木々は樹液に満ちています。] 詩篇104:16 英訳
『主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。』 新改訳聖書
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。
活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。
そこにいのちがなければならない。
聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。
そうでないと私たちは主の木となることはできない。
単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。
私たちは神のいのちに満たされていなければならない。このいのちは神秘である。
私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、
どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。
そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。
聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。
そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、
神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。
根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。
私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。
クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。
クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。
常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。
信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。
しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。
彼は常に神のために働いているのではない。
しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、
その徳をその歩みと日常の会話において表す。
もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。
その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。
内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。