2003 01/31 23:49
Category : 日記
◆主は私たちの正義。(エレミヤ23−6)
クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、
静けさと、安心と、平安をいただく。
神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。
もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。
それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。
自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。
しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。
困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、
それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。
もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、
「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。
「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、
信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。
あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。
信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、
自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」
と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。
「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」
「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。
◆Charles Haddon Spurgeon
クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、
静けさと、安心と、平安をいただく。
神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。
もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。
それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。
自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。
しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。
困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、
それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。
もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、
「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。
「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、
信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。
あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。
信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、
自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」
と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。
「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」
「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。
◆Charles Haddon Spurgeon