1月8日(水) くもりのち晴れ
◆私にとっては、生きることはキリスト 死ぬこともまた益です。(ピリピ1-21)

信者も、常にキリストのために生きていたわけではない。
聖霊なる神によって罪を自覚させられ、また、死の苦しみを味わった救い主が自分の罪のための贖いとなられたことを恵みによって示された時から、その人は常にキリストのために生きることを始める。
新しく天より生まれた瞬間から、キリストのために生き始める。
イエスは価の高い真珠であり、私たちは、そのために喜んですべての所有を捨てる。
主が完全に私たちの愛を占領してくださるから、私たちはただ主のみを愛する。
主の栄光のために生き、主の福音を守るために死にたい。
キリストは生涯の模範であり、人格形成のよりどころとなる原型である。
パウロのことばには、人々の考えている以上の深い意味がある。
彼の生涯の目的がキリストであったこと、いや、生活そのものがイエスであったことを意味する。
昔の聖徒のことばで言えば、彼は永遠のいのちを食し、飲み、眠ったのである。
主は彼の呼吸、たましいのたましい、心の心、いのちのいのちであった。
クリスチャンであると告白しているが、このような思いで生きていると言えるだろうか。
私にとって生きることはキリストであると、正直に言えるだろうか。
キリストのために事業をなしているだろうか。
自分の栄達のため、家族の利益のためにしているのではないだろうか。
「それがいけないのか」
そう。クリスチャンにとっては、それはいけないのである。
キリストのために生きると公言する者が他の目的のために生きるなら、霊的姦淫を犯すことになる。
ある程度までキリストのために生きる人はあるだろう。
だが、全くキリストのために生きていると言うことができる者は、はたして何人いるか。
自己の源、力、流儀、目的がキリスト・イエスの一語に要約される生活こそ、真のクリスチャン生活である。

主よ。ただあなたにあって、あなたのためにのみ生きることを祈り、今私自身をささげます。
祭壇と鋤の間に立つ雄牛のように、犠牲と労働のいずれにも私を備えさせ、「私には備えがある」と言わせてください。