2004 01/19 22:34
Category : 日記
鹿児島で開かれた九州福音交流会の録音テープを聴いていました。
(私は欠席の為テープをお借りしたのです。)
「福音が本当の福音となる為に」というテーマで工藤信夫先生(精神科医)による3回の講演分。
まだ、全部聞き終えてはいませんが、かなりインパクトのある内容です。
馴染みのある放蕩息子の聖書箇所・・・・・レンブラントの絵画に描かれている怒りに満ちた目をした放蕩息子の兄・・・この兄にスポットを当ててお話をされています。
『15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。
『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。
『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
ルカの福音書15章11節〜32節
この放蕩息子のたとえ話は、簡単に記すと神から離れて(失われていた魂)私たち人間が・・・・神に立ち返る時、神は 愛をもって無条件で、喜んで、受け入れて下さるのですよ、神はいつも待っておられるのですよという話ですが。
しかし、いつも父の傍で一緒に暮らしていたはずの長男もまた、失われた魂であったのです。
教会の中にも、兄がたくさんいるのではないでしょうか?
ポール・トゥルニェの著書「人生の四季」を引用しながら、
キリスト教は人生を抑圧するものか、解放するものか?
神が悪いのではなく、キリスト教の福音を理解する私たち人間側・・・・道徳主義に陥っている為正しく福音が伝わらない、伝えられていない。
禁止事項を守ること・・・・・×聖書の精神から離れている。
○宗教的なもの-----神とその恩恵を情熱的に追求するもの。
●道徳的なもの-----自分自身を追求することに重きを置いている。
(道徳主義とは善悪を自分で識別し、あらゆる過ちから自分の身を守ることを自分に要求する。)
そのために絶え間ない努力と・・・・誘惑に負けるのではないかという不安と・・・・罪を犯すのではないだろうかという不安。
日本のプロテスタントの非常に悪いところは、真面目一点張りで楽しみを断念するところではないでしょうか。
生真面目で面白くない。福音を信じているようで、道徳主義。もっとエンジョイしていいのです。
イエスさまの前でいい子のふりをしなくてもいいのですよ。
「カトリック信者の中には 結婚したいと思う魅力的な女性がたくさんいるのに、どうしてプロテスタントの女性は真面目で硬くてガチガチなのでしょう・・・・・」
ポール・トゥルニェの「人生の四季」を読んで、以前ある人から聞いたこの話を思い出しその意味がなんとなく分かるような気がした。
・・・とも語られました。カトリックは女性原理、プロテスタントは男性原理が勝ってるということでしょうか。
なんだか・・・・心が探られ、刺される思いです。
本物
■「上手な絵描きは 本当の絵描きではないよ。下手な絵描きこそ 本当の絵描きです。」棟方志功
(私は欠席の為テープをお借りしたのです。)
「福音が本当の福音となる為に」というテーマで工藤信夫先生(精神科医)による3回の講演分。
まだ、全部聞き終えてはいませんが、かなりインパクトのある内容です。
馴染みのある放蕩息子の聖書箇所・・・・・レンブラントの絵画に描かれている怒りに満ちた目をした放蕩息子の兄・・・この兄にスポットを当ててお話をされています。
『15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。
『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。
『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
ルカの福音書15章11節〜32節
この放蕩息子のたとえ話は、簡単に記すと神から離れて(失われていた魂)私たち人間が・・・・神に立ち返る時、神は 愛をもって無条件で、喜んで、受け入れて下さるのですよ、神はいつも待っておられるのですよという話ですが。
しかし、いつも父の傍で一緒に暮らしていたはずの長男もまた、失われた魂であったのです。
教会の中にも、兄がたくさんいるのではないでしょうか?
ポール・トゥルニェの著書「人生の四季」を引用しながら、
キリスト教は人生を抑圧するものか、解放するものか?
神が悪いのではなく、キリスト教の福音を理解する私たち人間側・・・・道徳主義に陥っている為正しく福音が伝わらない、伝えられていない。
禁止事項を守ること・・・・・×聖書の精神から離れている。
○宗教的なもの-----神とその恩恵を情熱的に追求するもの。
●道徳的なもの-----自分自身を追求することに重きを置いている。
(道徳主義とは善悪を自分で識別し、あらゆる過ちから自分の身を守ることを自分に要求する。)
そのために絶え間ない努力と・・・・誘惑に負けるのではないかという不安と・・・・罪を犯すのではないだろうかという不安。
日本のプロテスタントの非常に悪いところは、真面目一点張りで楽しみを断念するところではないでしょうか。
生真面目で面白くない。福音を信じているようで、道徳主義。もっとエンジョイしていいのです。
イエスさまの前でいい子のふりをしなくてもいいのですよ。
「カトリック信者の中には 結婚したいと思う魅力的な女性がたくさんいるのに、どうしてプロテスタントの女性は真面目で硬くてガチガチなのでしょう・・・・・」
ポール・トゥルニェの「人生の四季」を読んで、以前ある人から聞いたこの話を思い出しその意味がなんとなく分かるような気がした。
・・・とも語られました。カトリックは女性原理、プロテスタントは男性原理が勝ってるということでしょうか。
なんだか・・・・心が探られ、刺される思いです。
本物
■「上手な絵描きは 本当の絵描きではないよ。下手な絵描きこそ 本当の絵描きです。」棟方志功