2002 08/17 18:59
Category : 日記
実家の裏庭には今年も大輪の芙蓉の花が咲き誇っていました。
今年の8月15日は記念すべき大きな主の恵みのときとなりました。
少しお証(あかし)をさせて戴きたいと思います。
毎年のことながら、異教行事であるお盆は私達クリスチャンには信仰がためされる時となります。
お祭りなどもそうですが、宗教弾圧があった時代に比べれば命を脅かされるほどの事はありません。
しかし、やはり生きにくい時となるのです。
私の場合は今年は主人の父(8/15が命日)の7年忌の法要の年にあたっておりました。
お姑さんは今年のお正月から何度も何度もそのことを折りに触れて申しておりました。
私はどうしてもその席には出席をしたくなかったものですから何ヶ月も祈っていました。
今夏の里帰りもその時期をはずして予定を組んでいましたが・・・仕事スケジュールが急に変更になったり、いろいろなハプニングが重なって、とうとう、主人の母もお寺の法要の予約等の手配だけしっかりすれば良いということになりました。8月15日は実家で過ごすことが叶ったのでした。
神様は私に最善の道を備えていてくださったのです。本当に感謝なことでした。
主人はまだクリスチャンではありませんが 信仰は世襲するべきものではなく個人、個人のものであるという考えを理解してくれていますし、なにより私の信仰にも理解を示してくれています。
主人が救われるのもそう遠いことではないと確信を持って日々祈っているところです。
色々な意味で、この法要の難関をクリアーしたことは私にとって大きな恵みだったと思います。
この世的な世間の常識からいえば・・・
私は長男の嫁でありながら、仏壇に手を合わせることも、お墓にも手も合わせない、お葬式に行っても拝まず(死者礼拝は偶像礼拝)お焼香はしない・・・等々
とんでもない罰当たりな嫁なのですが、しかし聖書が禁ずる偶像礼拝をするわけにはいきません。
礼拝を受けるべきお方は聖書の神様ただお一人だけなのです。
『というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは自分では知者であると言いながら愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 アーメン 』
ローマ人への手紙1章21〜25節のみことばです。
今年の8月15日は記念すべき大きな主の恵みのときとなりました。
少しお証(あかし)をさせて戴きたいと思います。
毎年のことながら、異教行事であるお盆は私達クリスチャンには信仰がためされる時となります。
お祭りなどもそうですが、宗教弾圧があった時代に比べれば命を脅かされるほどの事はありません。
しかし、やはり生きにくい時となるのです。
私の場合は今年は主人の父(8/15が命日)の7年忌の法要の年にあたっておりました。
お姑さんは今年のお正月から何度も何度もそのことを折りに触れて申しておりました。
私はどうしてもその席には出席をしたくなかったものですから何ヶ月も祈っていました。
今夏の里帰りもその時期をはずして予定を組んでいましたが・・・仕事スケジュールが急に変更になったり、いろいろなハプニングが重なって、とうとう、主人の母もお寺の法要の予約等の手配だけしっかりすれば良いということになりました。8月15日は実家で過ごすことが叶ったのでした。
神様は私に最善の道を備えていてくださったのです。本当に感謝なことでした。
主人はまだクリスチャンではありませんが 信仰は世襲するべきものではなく個人、個人のものであるという考えを理解してくれていますし、なにより私の信仰にも理解を示してくれています。
主人が救われるのもそう遠いことではないと確信を持って日々祈っているところです。
色々な意味で、この法要の難関をクリアーしたことは私にとって大きな恵みだったと思います。
この世的な世間の常識からいえば・・・
私は長男の嫁でありながら、仏壇に手を合わせることも、お墓にも手も合わせない、お葬式に行っても拝まず(死者礼拝は偶像礼拝)お焼香はしない・・・等々
とんでもない罰当たりな嫁なのですが、しかし聖書が禁ずる偶像礼拝をするわけにはいきません。
礼拝を受けるべきお方は聖書の神様ただお一人だけなのです。
『というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは自分では知者であると言いながら愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 アーメン 』
ローマ人への手紙1章21〜25節のみことばです。