三島由紀夫はすごかった。
 村上春樹の本が売れています。
 どういう人たちが買ってどれだけ読まれているのかは知りませんが、とにかく売れています。
 しかし、私はどうしても村上春樹を読むことが出来ずにこれまで来ていました。
 ノーベル文学賞の候補にもなるといわれている作家ですから、
 気にならないことはないわけで…。
 書店で、気がつくたびに彼の本を手にとり
 読んでみるのですが、何度繰り返しても同じこと。
 ひとまず買って通して読んでみようという気さえ起きないのです。
 こんな経験はほかの作家ではまったくありません。
 なぜだろう、なんなんだろうこの感覚は…。
 

 その村上春樹が、ある雑誌のインタビューに答えております。
 そのやりとりを読んで、ああ、そういうことだったのだと
 大いに合点がいきました。

 紹介いたします。



 Q  あなたは三島由紀夫が好きではないと聞いていますが。

 村上 三島のスタイルが好きじゃないということです。

 Q  というのは、彼の文学的スタイルのことですか?それとも彼自身のあり方についてですか?

 村上 読者として好きになれないのです。最後まで読めた作品はひとつもありません。

 Q  三島を軽んじたために、あなたは日本の文壇から、さらに引き離されたのでしょうか?

 村上 そんなことはないでしょうが、いずれにせよ僕が日本の文壇に好かれていないことは、
     まあ、確かだと思います。彼らはとにかく違いすぎるのです。
     少なくとも僕は、彼らが作家とはこうあるべきだと考える存在ではない。
     彼らは文学というものは多かれ少なかれ、日本語が持つ美しさや、
     日本文化のテーマを追求するものでなくてはならないと考えている。
     でも僕はそうは思わない。僕は言葉を道具として使います。とても効果的
     に使える純粋な道具として。
     その道具を使って自分の物語を書く。ただ、それだけです。


 唖然としました。
 日本語で小説を書いている人間が単なる道具として日本語を使っている…。
 店頭で何度手にとって読んでも、入り込めない理由がこれで分かりました。
 三島由紀夫を最後まで読めない作家を私が好きになれるはずがありません。
 私は日本語を単なる道具だと断言してしまう作家…人間を嫌悪をこそすれ尊敬することができないからです。
 例えば、立原正秋の美しい日本語で綴った微妙な表現もまた拒絶する人なのでしょう。
 立原正秋の出自を考えたとき、村上春樹という作家が日本を代表する作家だと
 外国からとらえられている事実に暗澹たる想いをしてしまいます。

 その一方で、私は納得がいきました。
 自分の感覚はけして間違っていなかったと、今は誇りすら持つことができます。

 村上春樹がほとんど日本にいないのも「日本的なるものを嫌悪」しているからだと分かればなるほどと納得できます。

 それにつけても…三島由紀夫は予言的名言を残したものだと改めて思います。
 生前に将来の日本について語っている中にこういう言葉があるのです。


  無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、
  抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
  それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれない。



         210728patriotism          


 改めて思いますね。三島由紀夫はすごいと。

 「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない…」

 これをそのまま、誰かさんの人物評として使いたくなりましたよ。(ё_ё)


 おっと…間違わないでくださいよ。
 私は単に、日本的なるものを尊ぶべきだという考え方なのであって
 ごくノーマルな人間ですからね。(^ー゜)



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