あなたは最高だ!!
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 北海道はこのところずっと好天が続いております。
 皆さまのところはいかがでしょうか。

 相変わらずの薔薇でございます。
 
 真っ白。

 それで話題を転じるわけですが…。

 ご逝去なさった赤塚不二夫さん関連の話題で…。

 ◎赤塚不二夫さんにお別れ…タモリが弔辞 (スポーツ報知)
 2日に肺炎のため亡くなった漫画家の赤塚不二夫さん(享年72歳)の告別式が7日、
 東京・中野の宝仙寺で営まれた。
 ひつぎには、アイデア帳や鉛筆、昨年発売された「天才バカボン」のベスト集が納められた。
 法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。
 赤塚さんに才能を見いだされ、芸能界へと送り出してもらったタモリ(62)が
 本名の森田一義として弔辞を読み、
 「われわれの世代の青春は赤塚不二夫一色でした。あなたはすべてを前向きに肯定し受け入れる。
 すると、その時その場が異様なまでに明るくなる。それを一言で表しているのが『これでいいのだ』。
 あなたにはお世話になりながら一言もお礼を言ったことがない。
 しかし、今お礼を言いたい。ありがとうございました。
 私もあなたの数多くの作品の一つです」と涙声で語りかけた。
 その後、午前10時48分に会場を出て、
 正午からレギュラー番組「笑っていいとも!」に生出演した。
 喪主の長女りえ子さんは「多くの方々に愛され見送られ、父はとても幸せだったと思います。
 今後も頑張って、父の作品を守っていきます」とあいさつ。
 参列者らは「天才バカボン」のテーマ曲とともに、ひつぎを見送った。



 …という内容がニュースとして配信されておりました。
 
 私はユーチューブでその弔辞の様子を見て、
 なるほどとこのニュースの確認をしたのでした。

 ところが…。





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 その後、じわじわと広まってきた情報に、このようなものがあったのを
 ご存じでしょうか。

◎タモリの手には白紙…あふれる感謝そのままに (スポーツニッポン)
 タモリは、手にしていた紙を何度も見ながら弔辞を読んでいたが、
 紙は白紙で、すべてアドリブだった可能性がある。
 7日夜放送のテレビ朝日「報道ステーション」では、弔辞の様子をVTRで伝え、
 映像から「手にした紙には何も書かれていないようにも見える」と指摘。
 インターネット上の掲示板でも話題となり
 「白紙なんだよね。すごいよタモさん」
 「あの長い弔辞を白紙で読んでるとかすげぇな」
 「読み上げるふり。ささげるギャグなのかな」
 などといった書き込みが相次いだ。


 これには驚いた人が多いのではないでしょうか。

 でも、アタクシ、なるほど、十分あり得ることだなと思ったのであります。
 ユーチューブで、その弔辞を聞いたときに、言葉づかいに、ちょっとこれは…
 と思える表現があったのは事実でした。
 いわゆる弔辞のために文章を書いて、練り上げて、何度も読み返してできたものとしては、
 ちょっとおかしいかなと…。
 しかし、なんといっても弔辞ですし、必ずしも平静な状態であるとは限らないわけで、
 読み間違い等もあるだろう…。
 そのように考えて納得していたのです。

 しかし、そのすべてが白紙を見ながらのアドリブだとしたらば…
 なるほど、そうか、そうかと、いちいち納得がいきました。
 
 上京してきたタモリを待ち受けていたのは、
 赤塚不二夫さんをはじめ、山下洋輔、筒井康隆等々…といったそうそうたる顔ぶれ。
 いずれもタモリの芸を楽しみに集まってくるわけです。
 それはたとえば、こんなようなこと…。

 もし、ターザンが中国人だったら、どんなふうになるか。
 もし、4カ国の外人が一緒に麻雀をやったらどうなるか。
 私はまだ、ホンモノのイグアナをみたことがない。この場でイグアナを是非見てみたい。
 淡谷のり子は演歌が嫌いだそうだが、なぜ嫌いなのか。淡谷のり子になって答えよ。


 …等々、無理難題のリクエストを連日連夜、タモリに浴びせかけていたのです。
 どんなものでも、こなしてしまうタモリに対して、
 これでもか、これならどうだ、これは無理だろう…
 そんなふうに、どんどんヒートアップしていったわけです。
 芸の努力なんかしない。努力までしてやりたくないというタモリですが、
 その場でのアドリブならば生き生きとしてこなすのは
 こうした経験があるからだと思います。

 ですから、弔辞でのアドリブは、いつもタモリの芸を楽しみにしていた
 赤塚不二夫さんに対する最高の瞬間芸だったということができるでしょう。

 


◎タモリの弔辞全文(産経新聞より)
 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、
 ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。
 われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。
 あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、
 私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、
 私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、
 歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、
 あなたは突然私の眼前に現れました。
 その時のことは、今でもはっきり覚えています。
 赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。
 この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは
 『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。
 それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』
 と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、
 この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
 それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、
 深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、
 あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。
 お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
 あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。
 そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、
 相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。
 あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。
 その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。
 そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
 しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は
 はるか年下の弟のようでもありました。
 あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、
 大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、
 出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、
 大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。
 それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、
 また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
 この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
 すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。
 軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。
 どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
 最後になったのが京都五山の送り火です。
 あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、
 一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、
 肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。
 そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。
 あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。
 私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。
 それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、
 お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
 あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。
 しかし、今お礼を言わさせていただきます。
 赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
 私もあなたの数多くの作品の一つです。
 合掌。平成20年8月7日、森田一義」





 赤塚さんの笑顔が見えてくる気がいたします。
 そして、タモリさん、あなたは最高だ!!

 
 

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