わざわざこんなこと…
          200517parkgolf3

 女性の方は、やはり、ちゃんとオシャレにも気づかっておられます。
 ファッションとかも悪くないんじゃないでしょうか。


 えーと精神年齢のことでした。
 これは某作家のエッセーを読んでいた時になるほどと
 長年抱えていた疑問が解決したんですよ。
 その作家によると、

  自分はいくら考えても、28歳以降はこれといった成長はない。
  それ以後はもちろん年齢は増えているけれど、精神的には28歳の時点で停止している。
  年を取っていくことで世間知を身につけ、それらしくふるまうことはできるようになっているが、
  精神的な年齢は28のままなのだ…

 というのです。

 目からウロコが落ちるとはこのことでした。

 それならば、「老いらくの恋」などと人々にバカにされながらも、
 お年寄りが結婚したりすることも十分あり得る…。

 嫉妬に狂って、付き合っていたおばあさんを殺してしまったおじいちゃん
 といった話も、「いい年をして」…などと片づけることはできなくなってきます。
 なにしろ85歳の彼の精神年齢は、20代であるかも知れないのです。
 
 いい年をして…という言葉も、それだけの年齢なら、
 それなりに常識を身につけていなければならない
 というほどの意味にとらえるべきなのでしょう。

 自分自身について考えても、30歳前後で成長は停止した感じがします。
 
 

  子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。
  五十にして天命を知り、六十にして耳順う。
  七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。


 晩年の孔子が自分の一生を顧みて述べた言葉として有名な言葉です。
 15歳で学問の道に入る決心をして、30歳で自信を持ち、
 40歳で迷うことなくこわいものがなくなり、50歳で人間の限界を知った。
 60歳になると何を聞いても腹を立てることがなくなり、
 70歳になるとなにをするにも度を過ごすということがなくなった

 …といった意味だと解釈されています。
 一般的な解釈は、孔子を神のごとく尊敬する立場からのもので、
 ここに述べられていることが歴史的事実であったかどうかは分かりません。
 当時の人間の寿命を考えれば、耳順、不踰矩というのも、
 必ずしも素直には信じられないわけで…。

 なんでもかんでも怒らねばいいというものでもないでしょう。
 度を過ごさないというのも同様で、
 自分の意思どおりに事が進まなくても、
 だからこそ意思をもって、自制しようと心掛けることにこそ
 意味があるのだということなのではないでしょうか。

 なぜなら、さらに読み進めると次のような箇所があるからです。



  子曰く甚だしいかな、吾が衰うるや。久しいかな。吾れ復た夢に周公を見ず。


 子曰く、さて私も気力が衰えたものだ。もうずっと夢に周公をみることがなくなった…。


 これは明らかに晩年の衰えた自分を素直に述べた言葉と考えていいでしょう。
 こういう本音の言葉があるならば、やはり有名な「不惑」、「耳順」…といった一連の言葉は、
 努力にこそ意味があるというほどの意味でとらえるべきだと思うのです。
 いわば「かくありたい人生」を述べた言葉であると。

 
 おそらく孔子だって精神年齢は実際の年齢より、ずっと若かったのではないかと思うのですが、
 いかがなものでしょうか。


 こんなことを、わざわざ書いたのには理由があります。
 明日5月18日は私の誕生日なんですよ。(^ー゜)

 ま、どうかひとつ。(・_-)



※画像が見えない場合はこちらを。

 http://blog.goo.ne.jp/aoepapa/

 リンク集からも行けます。