2004 05/07 12:48
Category : 001
.
《 近代の幼児教育思想が
子どものなかに「自然」を見るところから始まった
ということは
「子ども」というカテゴリーの設定(=外延)に対する
その実体化(=内包)あったといってもよい。
・・・
芦沢俊介氏によれば
子どもがこの世に産み落とされたこと自体が
「暴力的な」事実であって
子どもの自己選択・自己決定の結果ではない
当たり前のことなのであるが
そこに子どもの「イノセンス」(根源的受動性)の
出発点がある という
すなわちイノセンスとは 「無垢」ではなく
「対抗暴力」としての子どもの存在を意味するもの
として考えられている
もし 子どもの根源的受動性を
「穢れなさ」と読み替えることが
教育社会学の必然であったとするなら
それは大人と子どもの現実的な「暴力関係性」を
理想的な「教育的関係性」で糊塗してしまうといった
また別の「暴力」が作動していたのかもしれない 》
〜 教育社会学 : 岩永雅也・稲垣恭子
.
《 近代の幼児教育思想が
子どものなかに「自然」を見るところから始まった
ということは
「子ども」というカテゴリーの設定(=外延)に対する
その実体化(=内包)あったといってもよい。
・・・
芦沢俊介氏によれば
子どもがこの世に産み落とされたこと自体が
「暴力的な」事実であって
子どもの自己選択・自己決定の結果ではない
当たり前のことなのであるが
そこに子どもの「イノセンス」(根源的受動性)の
出発点がある という
すなわちイノセンスとは 「無垢」ではなく
「対抗暴力」としての子どもの存在を意味するもの
として考えられている
もし 子どもの根源的受動性を
「穢れなさ」と読み替えることが
教育社会学の必然であったとするなら
それは大人と子どもの現実的な「暴力関係性」を
理想的な「教育的関係性」で糊塗してしまうといった
また別の「暴力」が作動していたのかもしれない 》
〜 教育社会学 : 岩永雅也・稲垣恭子
.