2007年11月の記事


朱の品格
九州の地に住んでいた神武天皇は「良い国が他に有る」と言う言葉に誘われ大和まで遠征してきた
そして初代の天皇となったとされる
その時の名前が神日本磐余彦尊である
大和の磐余にはどんな良い事が有ったのだろうか
それから年月が下がって謎の多い継体天皇は二十年以上もかかって大和入りし磐余に宮を建てた
そこまで固執した磐余には何が有ったのだろう
明治の時代になって大和宇陀地方に水銀鉱山が発掘されている
どうやら過去の天皇が磐余に固執したのはこれが原因だったらしいと言うのである
飛鳥時代と呼ばれる約100年の間は非常に繁栄し独自の文化を築いたがその後見向きもされなくなり都は北へと移りやがて平安京に至るのである
当時の飛鳥は決して豊かで開けたところではなかったが何故か人々はここに集まってくるのだった
理由を考えるのに黄金よりも貴重と言われた辰砂の存在が有るのではないか?
つまり朱である
朱は中国の辰州で取れるものが最高とされ我が国でも取れる朱紗の中でも上質の物を辰砂と呼んだと言われる
当時は掘って地中にあるものを使うのではなく発掘技術も未熟だった為に表面に何らかの理由で流れ出てきている物を集めて使っていたようである
当然天然の物は量が限られるから貴重品となる
そこで人工的に水銀と硫黄を化合させて銀朱と呼ばれる物を作ったとされる
これが辰砂の下に位する訳である
朱は呪いに使われ聖なるものとして大事にされ火にも繋がり太陽信仰にも関連すると言う事から朱は尊ばれてきた
その為権力を持ったものは辰砂を使った建物などを作り手に入れられない者は格下の朱を使い更にそれさえ手に入れられない者は赤土などで代用をしていたと言うのである
古代天皇が飛鳥に固執したのはこの最高の朱の権利を確保する為だったのではないか?

やがて表面に出ていた物を使い切った後地中の物を掘り出さないままに時代は流れ明治になるまでその存在は表に出ることは無かった
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