試される時代の釧路 『くしろ写真帳』全体解説 幣舞公園から見える表情 ―3― by 佐藤宥紹210629
試される時代の釧路 『くしろ写真帳』全体解説 幣舞公園から見える表情 ―3― by 佐藤宥紹210629

ー隔地間交易と地域分業の江戸期―
漁業資源は形を変え本州へ。ニシン・イワシは農業用肥料、コンブは中国向け輸出品、サケ・タラは江戸の旨味食材です。釧路川河口と江戸・上方を結ぶ海路輸送で遠隔地間交易が始まります。
地域の資源は、本州農村が進めていた綿花・稲作の増産に貢献、日本全体の経済を補完する地域分業の一翼を分担していたのです。

 ー資源に期待集まる明治から昭和期―。
1920年(大正9年)は釧路町に北海道区制が敷かれ、釧路区が発足します。産業的にも都市基盤整備でも、「近代化」の時代。内陸炭鉱と農地が開発され、太平洋炭礦株式会社が創業、富士製紙株式会社鳥取工場が操業します。
漁船は風帆から石油動力に変わる「漁船動力化」の時です。施設で民営鉄道網の広がり、水道、公園、街路の整備と四代目幣舞橋が完成します。

「期待される」が「試される」に――。
1952年の釧路市人口は万人。日本銀行釧路支店が、地元の熱心な誘致で営業を開始しました。中央銀行の支店開業はその後に続く「誘致の時代」のシンボルです。外部の投資は、この地への期待度の高さの表現です。
しかし石炭増産は続くも釧路炭田の小ヤマは閉山。国内では三菱資本や明治鉱業の炭鉱が閉山していきます。釧路の資源に対する評価が転換し、海外資源に代替・置換される時代の始まりです。
1977年には国際漁業規制と続きました。そればかりか長く釧路や北海道を形づくった域外からの投資が撤退します。域外からの投資あればこそ釧路を発展させた投資が、こぞって海外に向けられる時代を迎えました。