2024年04月の記事


WEBでなく本読む理由 「本 読まなくていい」検索ワードで240430
 WEBでなく本読む理由 「本 読まなくていい」検索ワードで240430

 1)人類が築いてきた知の系譜をたどる
 「先行研究にあたるのはめんどくさい」かもしれぬが、それは<知の営みが蓄積する条件>。「先行研究」をやるがゆえに「巨人の肩に乗る」ことができる。
 2)教科書を読めば次になにを読んだほうがいいかがわかり
 3)辞書も教科書と同じく、くりかえし読むことを前提にしている書物
 4)ブログが出てきて、検索結果が「汚染」されるなど、工夫しないといけない。
 5)体系的なものを手に入れようとすると、ネットは基本的に面倒くさい。教科書って一流の人間がまとめてくれている。
 6)ひとつひとつの論文はネットで手に入るが、何百何千という文献をチェックできない。
 7)情報を編集することで、見えてくるモノもある
 8)悪循環に組みこまれながらも、悪循環をちょっと組み替える時に二つの問題可決方法。
  ●リニアな問題解決=明確な「原因」があって、そこに対処すれば「結果」が変わるという発想
  ●サーキュラーな問題解決=問題が生みだしている力を、逆に利用するような手法
  ●リニアが「剛」なら、サーキュラーは「柔」のようなイメージ
 以上、https://www.flierinc.com/interview/interview095 読書猿「『ウェブ』ではなく『本』を読まなければならない理由」  240430 11:30
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生かせるものは、活かそう=前田正名<平海岸に人工を施せる港>の急務240427
薩摩出身で維新政府の若き官僚として知られる前田正名。
その論述中に、本邦の港湾施設に言及した記載が『前田正名自叙伝』のなかにある。
フランス留学の折り、フランス国マルセイユ港に入港した直後のことだ。

 一つの文脈を二つのセンテンスにわけて、添付画像で示すことから始めたい。
 記述は長男によって記録されたもので、『社会と国家』という雑誌に掲載された一文だ。
 本邦では地形にそった天然港湾に頼るのみで、「国家の利害に非常の影響」「帝国の設備なく国家の耻辱、国家の損失」と、慨嘆する。

 初めに黄地の画像に示した「乗客に対して、最も危険を感ぜしむるものは港」と喝破する。
 そのうえでわが国では、国内航路にのみ視点をすえて船舶の大型化&動力化、すなわち汽船化に対応していない点を、強く嘆いている。
 近代国家として、国際社会に伍しては行けない。危機感を表明した点である。

 続けて正名は、海外の港湾が日本のように天然の地形=「天然の形成によりて港を造り居る」のではない。
 然らばいずれ。「平海岸に人工を施せる」港。つまり修築港湾の造成が、急務たることを述べていた。
 前田の提言があろうとなかろうと、防波堤、接岸岸壁に灯台を具備した三点セット。建設港湾は、早晩、日の目をみたことであろう。

 そうであっても、阿寒摩周国立公園の表玄関を標榜する釧路港しては、以下の点に着目する。
 それは<遅れがちな建設港湾造成や、航路標識の一形態としての灯台設置に寄与した>、と。
 天成港湾の時代に、厚岸港・根室港に後れをとった釧路港。人口の防波堤を築き、接岸岸壁を配して、航路標識の施設も備えるの契機としておきたいのだ。

 生かせるものは、活かそう=前田正名<平海岸に人工を施せる港>の急務240427
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100周年にむけ第二世代 東日本大震災後に復興・釧路港霧笛保存に新体制240427
 「暫くぶりに保存会役員会を開きます」。
 案内があって、夕刻の会議に出かけてゆきました、ですよ。「COVID-19で休眠、活動を再開」。
 中軸をになってきた方の、力強い宣言です!!。

 (霧笛保存会の目的)
霧の街釧路の歴史を音で刻んできた霧笛
   役目を終えた今、産業遺産として私たち市民が
大切に保存し音の記憶とともに
    霧笛が果たしてきた役割や、功績を
      後世に伝えていく事。

 2011年3月19日。前年のこの日、1925年以来86年の役目を終えた釧路港霧信号=通称「霧笛 むてき」の貸与を受けて、その公開・活用に踏み切った。

 1)「音で表現」=“釧路らしさ”を象徴する産業遺産、文化財として動態展示で持続保存。
 2)濃霧で見通せぬ海況下で安全性重視、不可欠の存在。今、気候変動・異常気象で「日本の海に異変」の世に警鐘を吹鳴。
 3)吹鳴開始後100年、次の200年にむけ保存体制の世代交代は喫緊の課題。

 空席だった会長職に、駒板芳夫さんが就任してくださった。
 歌人にして北洋船団派遣の漁撈長を生涯にわたり務めあげられたお方。キャリア&表現力ともに優れたお方。
 副会長と事務局次長に明確な世代交代。来年の吹鳴100周年にむけての世代交代は、意味のあることと歓迎する。

 100周年にむけ第二世代 東日本大震災後に復興・釧路港霧笛保存に新体制240427
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"創業者の思い"消えて 1千本のさくらの里、雑木林状態『福井新聞』240426
  "創業者の思い"消えて 1千本のさくらの里、雑木林状態『福井新聞』240426

 経営がシッカリしていなければ・・・・・・。「売家と唐様で書く三代目」。
 そした思いで読ませてもらった、『福井新聞』の配信。
 「桜が泣いている…市民オーナー植樹15年、雑木林状態に 敦賀市総合運動公園内、高齢化や転居で管理困難」。

 まずは、報道部に寄せられた一報。
 (敦賀市沓見の市総合運動公園内にある「敦賀さくらの里」について)「手入れが行き届かず、雑木林のようになっている」との声。
  「敦賀さくらの里」とは、「市民らが約15年前に桜のオーナーとなって千本を植樹」。

  「市も( 約1億4千万円の事業費をかけ)散策道を整備した」、と。
市は設備をほどこした。そもそも管理は「植樹をした人にも草刈りなど管理を求めている」が、{(その創業期の市民は)高齢化や市外への転居で多くの木は放置されたまま」と。

 悪いことに「市民にも存在を十分に知られていないのが現状」、なのだそうだ。
 時は2006年度にさかのぼる。
 「敦賀ロータリークラブが創立50周年事業として公園東側の山に300本を植樹」。それを機に「市民が1人1万円を払って(900人が)木のオーナーとなって植樹」。
 そこが発端。

 「さくらの里の整備事業」として、市民や行政でつくる「敦賀さくらの里実行委員会」が一帯を桜の名所にしようと"運動の輪"広がった。
 「07年度から09年度に苗木約880本を植え、約5万9千平方メートルに29種類の桜1180本が育つ」。さて、そこからだ。

 放置していたわけではなかった。
 「敦賀さくらの里実行委員会」は、「敦賀さくらの里保存会」に名称変更された。
 「(オーナー会として)08年度以来、毎年約400人が参加し水やりや施肥をしていた」ものの・・・・・・。
 「近年、新型コロナ禍などの影響もあり開催できなかった」と。

 なるほど、それではこの4年ほどの<空白>が問題点であるらしい。
 「(新聞社に投稿の方はオーナーの一人、彼が申すには)毎春、山に入って雑草を取るなど手入れしている」。
 しかし「根元の草刈りがされず、雪や風で倒れてしまっている木も多い」と嘆く。

 コロナも明けた、2023年7月には。
 「保存会が約900人のオーナーに案内文を発送した」ものの、「桜を見に来た様子はほとんどない」(同課)という。「市は散策道は草刈りなどに市が毎年、年間数百万円を支出」と。

 北海道とはいささか、事情が異なるようだ。しかし4年の空白。実にそれが、恐ろしい。
 アイヌ民族の「口承伝説」を読んでいるうえでは、アイヌ民族は自身の生業と生活を持続させるうえから、祭祀を営み、供え物と祈りを捧げる。
 たいせつなことは、と。文字に書かずに言葉で伝え,歌謡に歌って舞いを納める。かくして100年、200年と伝承は持続する。

 コロナ空白の4年。創業者は「なんとかせねば」の思い。それを観ている二代目はなんとか繋ぐ。
 三代目は「知っているが、自身とは関係ない」、「爺ちゃんの趣味だった」。違う哉。
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これでは「利益のみ吸引、後始末負担は辺境地」 住友・伊庭貞豪に学ぶ「儲けたのちの後始末」240425
 お時間があったら「別子銅山 緑化 住友」のキーワードを検索欄に記載して、ページを開いてくださいな。おススメします。
 「伊庭貞豪 いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日」の<思い入れ>を受け継ぐ、さまざまな情報がヒットする。
 ●https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/tracks21/07/    住友グループ広報委員会
 ●https://www.srigroup.co.jp/sustainability/genki/ecology/05_1.html       住友ゴム
 ●https://diamond.jp/articles/-/285284                DIAMOND online
 ●https://www.besshi.net/hp/eco/01/005/01.htm   煙害克服への挑戦 100万本の大植林
 ●https://www.sumitomo.gr.jp>history>person>tracks21別子銅山の緑化事業と伊庭の自然観

 最初に掲げたページに記載。そして「注」がある。
 「別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道に背くことだ」。
 ※「注」部分。
 「これは東洋の思想です」。「西洋的な考えや、アメリカ的な考えでは、フロンティア精神、開拓の精神であり、人間が一番偉いということになります」。
 「ところが、東洋的な考えでは、人間は自然の一部である、だから自然を損なうと必ずしっぺ返しが来るということになります」。

 「別子銅山の緑化事業と伊庭の自然観」に申す(掲載画像)。
 「別子全山を旧のあおあおとした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない」
 「わしのほんとうの『事業』といってよいのは、これだ」「これで良いのだ」。

 旧阿寒町雄別地区。ここに三菱系炭鉱があった。1970年2月の閉山から50有余年。
 釧路市春採地区。 こちらには三井系の炭鉱が国内最後の<坑内掘り炭鉱>として存続していた。
 後者は閉山から四半世紀。それぞれ事業跡地の再生、復元、復興の投資や雇用創設はどこまで・・・・・・・・・。

 釧路湿原で、そしてパシクル沼周辺の保護林で、保護区聖域に踏み込む<再生エネルギー発電装置>の建設。
 稼働後、必ず廃棄の局面に遭遇。市民のなかには、その時、すでに会社倒産を懸念。
 学ぶべきは住友財閥の対応。反面教師となるのか、三菱・三井の炭鉱経営。

 これでは「利益のみ吸引、後始末負担は辺境地」 住友・伊庭貞豪に学ぶ「儲けたのちの後始末」240425
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嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
 嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設

市場を開設できたか」で、その最終回としたい。
 掲載図の画像に残るは釧路港原港区の入舟岸壁で水揚げされた「鮪 マグロ の下見」。
 日露戦争後に釧路港沖で網に揚がるようになった鮪 マグロは、暦年、その水揚げ量を拡大しつづけた。

 生産者の力量を高める。「生産者が価格を設定ができる」ために図式=チャートを描く。
釧路港のマグロ水揚げ量は昭和3~5年にピーク期をむかえていた。資本の蓄積。
 漁船の動力化を目指した、生産者の団体=漁業組合を結成した、嵯峨漁港建設・埋立ての為、釧路漁港(株)も設立した。

 嵯峨は当時の根室商業学校を卒えた「計算のできるヒト」であった。
 漁船動力化+漁業組合+漁港(株)→言わば経済的基盤、足がかりでもある。
 漁業生産者内部の足固め。組織=形式から、原資=意味の背景を組み立てるに余念がなかった。

 しかし、それで問屋層を納得させ、辺境地を対象とした得分=既得権開放が可能となったわけではなかった。
 そこには、時代の趨勢をまたねばならなかった。
 「大正12年(1923)3月には、「中央卸売市場法」が制定され近代的な市場が整備」

 すなわち本邦における市場システムの成立。「(明治になって東京府では)各地に民営の市場が開設され、魚市場は日本橋のほか、千住、新場、芝金杉の4箇所に整理」、と。
 大消費地にして、市場システムの導入は難しかったと、言うこと。問屋層の抵抗ではなかったか。

 釧路魚卸売市場は昭和13年9 月8 日に開設される。
 筆者は秘かに、1935年になって前述の「日本橋に千住、新場、芝金杉」をまとめ、築地市場の成立を待って、辺境の地の「魚卸売市場」開設が受容される推移となった。
 かく作業仮説を用意し、これからの史料発掘を待ちたく考える。

 ひるがえって、ここに《嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」》を3分割で記載の意味はなにか。
 本市には「鮪豊漁」を超越する、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」があったではないか。
 往時「「鮪豊漁」は「漁船動力化」「嵯峨漁港」「魚卸売市場」にストックし、「生産者が価格を設定ができる」「魚の水揚げ量日本一」に結実した。

 では、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」に集積した膨大な価値は、一つに「中央」に利益を集中」させた。
 他方で本市経済にフローした価値と経済は、いずこに。
 2024年4月25日配信の『北海道新聞』。「50年推計 9市町『消滅可能性』」と。
 2020年~50年の30年間で<釧路国管内、唯一の釧路市>にも、消滅の可能あり。そういうことである。
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嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
 嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設


「なぜに、難度の高い魚卸売市場を開設できたか」で、その最終回としたい。 
 掲載図の画像に残るは釧路港原港区の入舟岸壁で水揚げされた「鮪 マグロ の下見」。
 日露戦争後に釧路港沖で網に揚がるようになった鮪 マグロは、暦年、その水揚げ量を拡大しつづけた。

 生産者の力量を高める。「生産者が価格を設定ができる」ために図式=チャートを描く。
釧路港のマグロ水揚げ量は昭和3~5年にピーク期をむかえていた。資本の蓄積。
 漁船の動力化を目指した、生産者の団体=漁業組合を結成した、嵯峨漁港建設・埋立ての為、釧路漁港(株)も設立した。

 嵯峨は当時の根室商業学校を卒えた「計算のできるヒト」であった。
 漁船動力化+漁業組合+漁港(株)→言わば経済的基盤、足がかりでもある。
 漁業生産者内部の足固め。組織=形式から、原資=意味の背景を組み立てるに余念がなかった。

 しかし、それで問屋層を納得させ、辺境地を対象とした得分=既得権開放が可能となったわけではなかった。
 そこには、時代の趨勢をまたねばならなかった。
 「大正12年(1923)3月には、「中央卸売市場法」が制定され近代的な市場が整備」

 すなわち本邦における市場システムの成立。「(明治になって東京府では)各地に民営の市場が開設され、魚市場は日本橋のほか、千住、新場、芝金杉の4箇所に整理」、と。
 大消費地にして、市場システムの導入は難しかったと、言うこと。問屋層の抵抗ではなかったか。

 釧路魚卸売市場は昭和13年9 月8 日に開設される。
 筆者は秘かに、1935年になって前述の「日本橋に千住、新場、芝金杉」をまとめ、築地市場の成立を待って、辺境の地の「魚卸売市場」開設が受容される推移となった。
 かく作業仮説を用意し、これからの史料発掘を待ちたく考える。

 ひるがえって、ここに《嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」》を3分割で記載の意味はなにか。
 本市には「鮪豊漁」を超越する、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」があったではないか。
 往時「「鮪豊漁」は「漁船動力化」「嵯峨漁港」「魚卸売市場」にストックし、「生産者が価格を設定ができる」「魚の水揚げ量日本一」に結実した。

 では、「漁業・石炭・紙パルプ盛況の時代」に集積した膨大な価値は、一つに「中央」に利益を集中」させた。
 他方で本市経済にフローした価値と経済は、いずこに。
 2024年4月25日配信の『北海道新聞』。「50年推計 9市町『消滅可能性』」と。
 2020年~50年の30年間で<釧路国管内、唯一の釧路市>にも、消滅の可能あり。そういうことである。
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嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
 嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設

 水産水揚げ量の漁港で、消費者市場に加えて生産者市場を開設することは困難を極めた。
 しかしさらに難儀であったのは、「生産者が価格を設定ができる」流通構造に変える点であった。
 なぜか。

 答え。それは。辺境の地で労働力移転型の従事者が、直面した「前貸商人」とされる問屋の支配下にあった点。
 漁業者ながら生産手段も、着業期から収穫期までの生活手段も、漁獲物の販路も、その「前貸商人」とされる問屋に握られていた。
 その枠組みを組み替えるには、問屋層の既得権を克服し、近代的な流通システムの元に組み替える取引関係が存在し、その移行こそ、実に<難解>であったのだ。

 そこのところを理解しやすく解説すると、今日、「日払い雇用」なるシステムがあるではないか。
 「わが身ひとつ」。つまり、懐にゼニをもたず、一夜の宿も身の置き場もない人が、朝に就業して、夕べに日銭の支払いをうけて退勤。その足でネットカフェに向かい、朝、そこからまた「日払い雇用」に就業する・
 当時は、「日払い雇用」のシステムなど未成熟。かわって「食事つき、住み込み生活で、漁場で働き、精算期に成果品を買い取らせて、報酬と利子および元金を差し引きする」経済下にあった。

 そこのところを理解しやすく解説すると、今日、「日払い雇用」なるシステムがあるではないか。
 「わが身ひとつ」。つまり、懐にゼニをもたず、一夜の宿も身の置き場もない人が、朝に就業して、夕べに日銭の支払いをうけて退勤。その足でネットカフェに向かい、朝、そこからまた「日払い雇用」に就業する・
 当時は、「日払い雇用」のシステムなど未成熟。かわって「食事つき、住み込み生活で、漁場で働き、精算期に成果品を買い取らせて、報酬と利子および元金を差し引きする」経済下にあった。
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嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
 嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設

 昭和13年9月、嵯峨久は鮪漁業の利益で魚卸売市場を開設した。
 生産者が売り渡し価格を設定するために、利益に加えて、生産コストと自身の人件費を加えることが認められる。
 それは実に、困難な事業であった。なぜか。漁業卸売問屋の既得利益を制することであったから。

 1)昭和3年9月3日  嵯峨漁港建設・埋立ての為、釧路漁港(株)が設立される。
 2)昭和13年9 月8 日 嵯峨漁港に(株)釧路魚卸売市場本場が新築・竣工し、入船町魚市場は廃止される。
  【頌徳碑 嵯峨久壽像】「釧路漁業界の父」と呼ばれ、漁業基地:釧路の礎を築いた。

 1)は法人組織が不可欠であった。
 2)は「入船町魚市場」は消費者むけ市場であったが、そこに釧路魚卸売市場本場=生産者市場を設置することができた。

 この書き込みを手に、釧路市南大通一丁目、「頌徳碑 嵯峨久寿像」を是非、訪ねてみよう。
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「カレイ煮付」「熟成サバ味噌煮」 三陸釜石発「海のごちそう」リーフ240321
「カレイ煮付」「熟成サバ味噌煮」 三陸釜石発「海のごちそう」リーフ240321

1)「熟成サバ味噌煮」、2)「ブリ照焼」、3)「カレイ煮付」、4)「赤魚西京焼」
5)「サケ塩麹焼」   6)「サンマみぞれ煮」、7)「ホタテトマト煮」、
 8)「イワシ生姜焼き」  
  8食セット 毎月 2990円 16食セット 毎月おトクな5980円

 リーフの表には。
 「味にうるさい主人が『今月は何が届いたの?』」と 聴くようになりました」。

 先行してたまたま、「南部杜氏」のことを調べていた。全国で言われる「三大杜氏の一」。
 米どころ越後杜氏をうわまわる、300人超の全国一の杜氏集団。
 1957年頃、ニュース映画で紹介。「(岩手は)日本のチベット、です」の文句を知るだけに。地域ブランドの創出に成功した姿を、注目していたが。

 その矢先に、「三陸・釜石」から「海のごちそう」頒布会の“知らせ”が新聞折込で。
 「2)ブリ照焼」はともかく、その多くが住まいする北海道でも産する水産資源。
 イワシは養殖魚むけフィッシュミール。アール当たり1頓かの牧草は経済動物用飼料。

 「大量安価安定」資源の産地と、褒め上げられて久しく、気がついてみると「ヒト様の食するに非ず」の資源搬出型経済。
 家庭でももできる味。それが「調理いらず 片付け不要、今や家庭の秘術品」(60代♀)。

 パートで収入、時給●●●円よりは安いかも知れぬが、そこで考える。
 加工の人手、宅配料の運賃と人手、そこに投入の燃料消費量、地球への負荷・
 しかも汗した賃金が、“域外”の利益としてストックされる。

 江戸時代からこれまで、本州経済の発展を支えた北海道の経済。
 大量の資源を「ヒト様の食する」素材に、付加価値を高める努力。
 それは、さらに懸命に、賢明に、かつ周到に意図されてよいのではないか。
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どんなときにも人生には意味 ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』nhkETV240321
 どんなときにも人生には意味 ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』nhkETV240321

 フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方 2018.8.9 4:00
 「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」ーー。
 ヴィクトール・E・フランクルは、ナチスの強制収容所を生き延びた心理学者。著書『夜と霧』の冒頭に示された言葉。

 フランクルの教えは、辛い状況に陥り苦悩する人々を今なお救い続けています。
 多くの人に生きる意味や勇気を与え、「心を強くしてくれる力」がフランクルの教えにはあります。
(松山 淳著『君が生きる意味』 ダイヤモンド社 2018年)

 NHKこころの時代 宗教・人生 ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある (NHKシリーズ)
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三島、刈羽、頚城の三流派 or三島・野積、刈羽、頚城の四流派 越後杜氏の地域別住み分け240624
三島、刈羽、頚城の三流派 or三島・野積、刈羽、頚城の四流派 越後杜氏の地域別住み分け240624

 「米どころ・越後」に根付いた伝統の杜氏職。
 味わい&特徴、その一に。
 「米の品質に始まり素材一つ一つに自信をもてる」。
 「製造工程の細部にまでこだわった逸品」。
 「華やかな香りとすっきりと綺麗な味わいが特徴」(越後杜氏 大吟醸  Sakenomy)。

 味わい&特徴、その二に。
 「本醸造酒越後流の王道を行くキリッと引きしまった味わい」で
 「すっきりした喉ごしと、飲み飽きしない淡麗で軽やかな旨味」
 「料理の味を邪魔せず引き立て、食中酒」として最適。
 「冷や酒~熱燗でスイスイと飲み進めてしまう最強地酒」。

 地域ごとに、三島(さんとう)杜氏、刈羽(かりわ)杜氏、頸城(くびき)杜氏の3流派に。
 または、三島杜氏を越路杜氏と野積(のづみ)杜氏の2つに分けて4流派とする考え方がある。
 これらは越後杜氏の「三大出身地」「四大出身地」たるを示す(中村豊次郎著『越後杜氏と酒蔵生活』 新潟日報事業社)、と。

 越後杜氏の起源。
 「宝暦4=1754年の「勝手造り令」以降、日本酒の製法が四季醸造が寒造りへと移行」 「米の収穫が終わると、貧しい農民が冬場の醸造のために関八州や尾張へと出稼ぎに行ったのが発祥」
 「冬は積雪が深くて裏作の麦もできず、海も荒れて出漁できない越後の村から」「より多くの人手を欲している造り酒屋と、農閑期の現金収入を得たい農民とのあいだで利害が一致」したことが、
 「杜氏集団の形成に寄与したといえる」、とも。

 そうですかー、江戸時代初期のことかと、受け止めていましたが。
 故に南部杜氏に続く、「第二の集団」なのかねー。
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大神
 称号の一、第二位の序列 「大神」とは240507

「大木司稲荷大神」。神社名に記載の「大神」を調べてみた。
 「十勝大明神」。社殿の前を通らせてもらったことがある一方、東京・お茶の水駅で降りて、昌平坂学問所への道で、「神田大明神」で拝礼したことも。
 「大神」とはなにか?。

 「本来の神名(じんめい)に対して、その神の性格によって加える称号」を申す、そうで。
 「尊崇の意による皇大神=おおみかみ・大神=おおかみ・明神=みょうじん、菩薩=ぼさつ、権現=ごんげん、天王=てんのう」と、ある。
 「大神号 大明神号」で検索。https://kibune-gunma.jp/divine/ で、読む。
 
 この欄。開設者は、以下のように問う。
 「日本人の死生観 一番偉い神様を知っていますか?」。
 神社さんに「社格」があって、「郷社」「村社」「県社」。もちろん、「県」などの新字をもちいず、そこは厳かに「縣社」の表記。

 いま、「大神」の補足説明を。
「神道におけるランク2位の地位にある祭神に与えられた神号が、大神です。全国各地で影響力のある祭神であり、天照大御神に次ぐ地位にあることから神道においても核心的な存在」。
 あだ、おろそかにされることなきを。
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硬い米を上手に扱い柔らかな味わいのある酒 南部杜氏「酒質・特徴・味わい」240429
 硬い米を上手に扱い柔らかな味わいのある酒 南部杜氏「酒質・特徴・味わい」240429

掲載の地図は岩手県の一部。紫波郡紫波町&花巻市。
 近江商人に伝えられ江戸時代初期の寛永期に根付いた南部杜氏の原郷土。
 その江戸時代、蝦夷地と呼ばれた北海道東部にも現れていた「南部杜氏」。

 日本三大杜氏とも称され、四大杜氏のくくりでも最初に登場の「南部杜氏」。
 ようやく知りえたのが、「ienomi style=イエノミスタイル」にあった、次の記載。
 「近江商人が酒造りの技術を伝え」「東北の硬い米を上手に扱い、柔らかな味わいの酒を造るのが持ち味」。

 自身で提供の作品を、明確に他者に伝えたい。ほかの表現はないか。
 「(岩手県の日本酒)伝統的には濃醇で旨みが強いのが特徴」。
 「米の旨みが凝縮された濃厚で力強い味わい」。そうとも、申しているぞー。

 南部の酒を調べて、歴史では愉しみも少なかろう。
 「南部杜氏 特徴 持ち味」のキーワードで検索。「酒質・特徴・味わい」らしき<地域差>に、出会えたか。
 1950年代の後半、「日本のチベット」と称された岩手県。

 歯を食いしばって、米・水。麹に思いを入れた。
 今や、日本三大杜氏の首席を務める南部杜氏。
 「最盛期には3000人を超」「日本最大の杜氏集団、現在でも300名を超え」、と。
 「(越後杜氏は)南部杜氏に続く規模で170人ほどの集団」。刮目しておきたい。
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江戸時代の酒造 南部杜氏の受け入れ240429
 江戸時代の酒造 南部杜氏の受け入れ240429
 
 南部杜氏=岩手県花巻市石鳥谷、紫波郡紫波町を拠点とする杜氏の集団
 日本三大杜氏=南部、越後、丹波の一翼に加えられ、慶長11年=1606年頃に起源、と。
 二つの系統
  1)伊丹で鴻池善右衛門によって開発された大量仕込樽の製法を領内に持ち込んで大名家の保護をうけた技術集団
  2)近江商人の委託を受け彰造に従事の農民杜氏。
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「共感的理解」「無条件の肯定的関心」「自己一致 」 「傾聴 けいちょう Active Listening」240407
「共感的理解」「無条件の肯定的関心」「自己一致 」 「傾聴 けいちょう Active Listening」240407

厚生労働省が開設しているのか、「こころの耳」のページで「積極的傾聴」を読んでみるに。

USAの心理学者にしてカウンセリングの大家たるカール・ロジャーズ(Carl Rogers)が提唱したもの、と。

担当したカウンセリング事例(クライエント)を分析し、友好事例に共通する「聴く側の3要素」を示す。

1)「共感的理解」=話を相手の立場、相手の気持ちに共感しつつ理解
2)「無条件の肯定的関心」=(安心して話できるよう)善悪の評価、好き嫌いの評価を入れず聴く。話を否定せず、なぜそのように考えるか、その背景に肯定的な関心を持り聴く
3)「自己一致」=真摯な態度&話が分かりにくければ分かりにくいと伝え。真意を確認。

2011年3月11日、東日本大震災。
その後の12年4月から始まった「東北発☆未来塾」。
その番組で、「ガンジー和尚の聴くチカラ」シリーズが3週にわけ、放送された。

曹洞宗の寺院住職、金田諦應(かねたたいおう)師が呼びかけ、キリスト教も含めた聖職者たちが参加した。
「傾聴への道は寺から発す」「言うは易(やす)く “聴く”は難し」「“傾聴”の道も一歩から」の三回。
最終回では「塾生(東北出身の若者たち)だけで仮設住宅に暮らす人たちから話を聞くことであり、そのために必要な傾聴のツボを学ぶ」を、取り組んでみた。

毎回20分の番組。録画教材で紹介してみたが、若者の心に残ったであろうか。
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重油・硫黄碑出=大気汚染、OVER観光客、上陸後の失踪 大型客船、海外での対応240402
 重油・硫黄碑出=大気汚染、OVER観光客、上陸後の失踪 大型客船、海外での対応240402

  「大型客船 環境負荷」のKeyWordで検索してみると。
 入港する大型クルーズ船、海外では環境問題のみならず、オーバー観光やら、そもそも。 「乗客1人当たりのCO2排出量は、飛行機を利用した際の排出量よりも多い」などの課題が西欧諸国の外国航路寄港地で指摘されている。

 1)2023/3/19
  「クルーズ船の乗客1人当たりのCO2排出量は、飛行機を利用した際の排出量よりも多いと言われており」

 2)2019.12.7 「クルーズ船による海洋汚染問題」
  「最近話題となってる『観光公害』を悪化させ、さらにはSDGsの達成を阻害する要因などと非難」
  「カンヌで2020年から燃料の硫黄物質含有量が0.1%を超えるクルーズ船について寄港を禁止する」「そのような汚染クルーズ船に乗船する旅行客が街に足を踏み入れることを阻止する措置が導入」
 「クルーズ船が使用している燃料は、通常のディーゼル燃料に比べ「硫黄酸化物」が2,000倍も多く含まれ」「2018年2月に発表したレポートでは、クルーズ船などが排出する硫黄酸化物を多く含んだ排気ガスで、年間40万人もの人々が肺がんや心肺系疾患により命を落とし、1,400万人の子どもたちが喘息にかかっている」

 3)2018/05/30
 「アムステルダム市議会は7月20日、クルーズ船の入港を禁止する法案を可決した。関係者によると、この法案は観光客の数を制限し、環境汚染に歯止めをかけるため」
 「アラスカの手つかずの自然が残る地域への船旅は大気汚染、水質汚染、騒音公害、ゴミの山、行き過ぎた混雑などを引き起こし、生態系にダメージを与えている」

 4)2020/6/4
 「入国審査時間短縮のため導入された『船舶観光上陸許可制度』を利用した上陸後の失踪」。
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「脱炭素&カーボンニュートラル」「非製造物主義」「グリーンニューディール」 現代を考える環境用語三題240409
「脱炭素&カーボンニュートラル」「非製造物主義」「グリーンニューディール」 現代を考える環境用語240409

●脱炭素&カーボンニュートラル
 脱炭素は二酸化炭素(CO2)など温室効果ガス排出量を実質ゼロに。カーボンニュートラルは光合成でCO2を吸収し生育に活かしてゼロにするなど、温室効果ガス排出量と吸収量を均衡させること
https://ondankataisaku.env.go.jp/carbon_neutral/about/

●非製造物主義=モノ造りの投資や成果品の消費(製造物主義)に対し、知識、付加価値、環境、投資など無形資産形成に頭脳を働かせる考え方。

●グリーンニューディール A Green New Deal = 温暖化防止&経済格差是正めざす経済刺激策。(オバマ政権)再生可能エネに1500億ドル投資に500万人のグリーン雇用創出。
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思い入れたい京都人の気風=「顔の見えないモノからは買わない」 長崎屋帯広店、全面閉館『道新」240401
 道内配布紙の伝えるところ、帯広駅近接の長崎屋帯広店が3月31日をもって、全面閉館したそうで。
 釧路市では1979年の出店と記憶しているが、98年頃には撤退した。本市で同店が大型量販店の地方進出の端緒であった。
 後続のダイエー、イトーヨーカ堂がすでに撤退している。「大型量販店の出店、地方にとってはなんであったのか」。

 交通要衝に隣接の大型空閑地。建物は地元業者の建てさせ上屋をレンタル。
 豊富な駐車場を確保して集客、地元商店街は相次ぎ店仕舞い。
 高齢者にとっては「買い物難民」を表出し、その後釜にはコンビニエンスストアが埋め合わせる。

 「売れ筋商品、お手頃価格」が「モノ作れる市民」を「外部依存型経済」に誘導し、消費専用に位置を替えてしまった。
 撤退がきまるや、「(長期に及ぶ)割引セール」。大型量販店は「市民の富を吸引する存在、吸引する富が枯渇するや、矢継ぎ早に撤退」。
 空間となった建物は、後継活用が難しく、廃墟と化す。

 大型量販店とは市民にいかなる存在か?。思い入れたい京都人の気風=「顔の見えないモノからは買わない」 長崎屋帯広店、全面閉館『北海道新聞」240401
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