2013年12月の記事


変化と不動 安芸宮島(5)
◎変化(へんげ)と不動(5)
 安芸宮島で、変化の一番は潮の満干。そう受け止めました。宮島口駅の観光案内所、フェリーの発着所、神社の受付。それぞれに満潮と干潮の時間表が掲示されています。



 島への到着は午前9時半。拝殿横の「神の池」は、周囲の潮汐がひいて、ポッカリと「丸い池」の存在感を発揮。「干潮の最大は0時43分だって」。この日の島の行動予定を立てました。



 その0時半過ぎ。拝殿をぬけて西側の降り口から、大鳥居の方に勇躍お出かけ。2003年11月16日の訪問は、満潮で岸辺から大鳥居を眺め、「この次には」。再訪の思い。



今回は干潮。一歩、一歩、大鳥居に。

柱の基部に身を寄せて、どっしりした柱の基部の威勢を確認。道筋の説明では、「置いてあるだけですが、(木製ながら)浮かないのです」。重量60㌧、直近の建立は明治8年と聞かされて。



砂地のうえでは、開放感を満喫。大鳥居の東には虹が。変化のきわみ、ここにきわまれり、かな。
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ウィルスチェック
 24日からノート型パソコンが重くなった。特にネットに規制がかかっている。

 ほぼ偶然の手順でディスクトップ型が機能するようになり、<事なきを>得ている、が。

 難しいもの。暮れでは、相談センターも快く応じてもくれまい。

 かくて、しばらくぶりの記載。
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google ツールバー
 ウィルスソフトとの相性がうまくゆかず、ネットのつながりが悪いですわ。

 改善の方法にたどりつけず。休眠状態になりそうです。

 原因調査中。しばし、ご猶予を。
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変化(へんげ)と不動(4) 安芸宮島・厳島神社
 変化。そのバリエーションの一番は潮の満干。

 季節によって異なるから、いつでも同じではない。2003年11月16日は11時から15時までの滞在中、潮は満ちていた。



 2013年11月29日。万町は0時43分。弥山から降りて、大鳥居まで。この日は晴天、しかし大鳥居の右手=東方角に虹。

 変化は、ここに極まれりの感。
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変化(へんげ)と不動(3) 安芸・宮島
高低差

 

 季節差



 垂直差



 
 水平差



 景観のバリエーション 
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林玲子著『日本の近世5 商人の活動』
 林玲子著『日本の近世5 商人の活動』 シリーズ「日本の近世」、第5冊目は、「商人の活動」。
 木綿・醤油、三井・白木屋・大坂屋などの商人を軸に、江戸及びその近郊の庶民を顧客とする流通の広がり、流通が庶民と産地を結節してきた経過を示す。

 「遥かなり綿の道」「新旧商人の交代」「中央市場のメカニズム」「近世の商法」「ノレンの内側で」「商人と武士」「近代につながる新興商人」。

 「新旧商人の交代」。
 戦国から近世への移行期に、大名家が戦時を勝ち、城下建設に領主的特需をささえた商人があった。
 戦時に与えられた特権は、平時にうつり生活の向上に即して「大名貸」にのめりこむうち、「債務不履行」に巻き込まれ、没落の汚名をかぶる。
 時期は元禄・享保期ということになるのかもしれないが、延宝期(1673~)の時期で、すでに庶民に普及し始めた絹織物を手掛け、大名取引から市中取引に転じていく商人に視点を転ずる。

 「近代につながる新興商人」。
 綿もさりながら、江戸周辺の醤油を取り上げ、原料・蔵・樽を揃え、安定した供給をめざしつつ、西国から独自の商圏を江戸に組み立てた必然性を示す。

 冒頭に「近世の商人像」、末尾に「庶民層に新しい世界を開いた商品流通」。この抄訳が本書の意図を、端的に示す。
 北は青森から鹿児島まで、ほぼ均質な和紙、筆法、記載の伝統的様式、資料所在のありように、江戸時代が広範に展開する「流通」を通じ、庶民も、地域もむすばれる社会を展望する。そのうえで、「流通」を担う商人の時機をみる確実性、果敢にして遠路をいとわぬ行動、遠隔地間につちかわれた信用に注目する。

 いま期せずして、「遠路をいとわぬ」と書いたが、そこに江戸ー大坂間、伊勢商人や近江商人が背負いをベースに、江戸支店を軸にした商いに出張員商法に示される「陸路」に特化しているように思う。
 対極に日本海交易があり、「海路」輸送が存在したが、それは取引量の狭さを意識してのこと、か。(中央公論新社 1992年)
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変化(へんげ)と不動(2) 安芸宮島・厳島神社
 千変万化。宮島の季節を代表するのは紅葉。船で島をながめると、緑のなかに点の紅葉。

 

 季節がすぎて、今さら紅葉でもないのかと思いつつ、上陸。プロのガイドさんは「この時期、一番は、大聖院」。

 

 大聖院は宮島の信仰の実は中核かも。町屋通を経て大聖院。大聖院から紅葉谷のロープウェーにゆくのにも、そこかしこに見事な紅葉。

 

 紅葉谷から弥山山頂に向かうところでも、最後の機会。紅葉が島の随所を移動して歩く?。変化が豊富ということ。

 

 ロープウェーから、紅葉の塊。二日たつと師走。むすびの紅葉。冬は雪、春に梅で秋の紅葉。
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瀬戸内寂聴著『老いを照らす』
 瀬戸内寂聴著『老いを照らす』 出版記念の講演を出版したもののようだ。
 「老いと向き合う」「祈りの力」「老いのかたち」「世情に抗する」の四章で、構成。

「老いと向き合う」には、
 「新しいことに挑戦すること、おしゃれや恋をわすれないこと」(46p)。
「祈りの力」のむすび。
 死は恐ろしくないと、言いたいか。「向こう岸へ着いたら、ご主人、恋人、ご両親、ご友人たち、もうみなさんが岸辺で待っていてくれて」(154p)。「倶会一処」ということらしい。
「老いのかたち」は
 釈迦の入滅直前の語が引用される(194p)。

「世情に抗する」で、二か所。
「世のため人のため、長い間働いた人たちに、国が報いるというのが介護保険制度の趣旨。それを民間任せにしていては、不正や悪用がはびこるのはあたりまえでしょう」(199p)。
「働けなくなった老人を、壊れた機械を捨てるようにうち捨てるのは、商業主義と利己主義に毒された社会の病の表れだと思います」(200p)。

 
文明の発達が、教育が悪いと、筆者は述べる。
釈迦の智慧を「命をたいせつにする」「見えないものも尊重する」と、解釈。わかりよいのかも。
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変化(へんげ)と不動(1) 安芸宮島・厳島神社
変化(へんげ)と不動(1) 安芸宮島・厳島神社 2013年11月29日 宮島へ。



 変化の量と質が豊富で、さまざまなバリエーションが繰り広げられる。そこに宮島の魅力、世界文化遺産の価値があるのではないだろうか。

 その一は、潮の変化。日に、月に、季節によってかわり、その変化においつこうとすると、滞在時間がながくなる。



 その二は街並み。観光客が通過する土産物通も良いが、そのもう一本先にはいると「町屋の並ぶ通」。新旧の対比が有意味である。

 その三は、紅葉。全島いっせいに紅葉がはじまりおわるように見えながらも、厳島神社界わいと奥の大聖院界わいには時間差があるようで。
 そこは、プロのガイド人が教えてくれた。



 変化(へんげ)と不動。その(1)は、「潮」「街なみ」「紅葉」を指摘する。
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アプローチ(2) 安芸宮島・厳島
font size="3">アプローチ(2) 安芸宮島・厳島 宮島の背後にある大都市、広島市。

 「都心からはヒロデンで」の広告。電車では広島駅ー西広島(5.4キロ)、西広島ー宮島口(16.1キロ)で、あわせて21.5キロ。運賃は270円かと。



 ただし、要する時間のほうは、ネットではわかりにくい。西広島ー宮島口は25分ぐらい、西広島ー広島駅はどのくらいあ、要するか。



 ヒロデンからは、松大汽船。
 これが系列の運航会社。宮島口と宮島をむすぶ。「千年の時を超えて、今なお息づく宮島の歴史浪漫が10分間の快適な船旅」がキャッチフレーズ。宮島口と宮島の最短距離をむすぶ、約10分の乗船時間。



 対するJR便。広島ー宮島口は26分、400円。連絡船は宮島口から大鳥居の前を迂回してくれて、宮島船着き場へ。
 帰路は、最短距離を宮島口へもどる。
 JR便は、駅からもわかりやすく、西側の航路を選んでいるので、大鳥居前通過の気配りもできる。



 そこで、考える。早くて高いがJR便か、時間はかかるが安い広島電鉄便か。
 急ぎの旅なら、JR便。厳島神社のご祭神=市杵島姫神様との時間を共有しようとするなら、広島電鉄便。



 運賃の差額は、初穂料に献納などなど。いろいろ、考えてみましたが。
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アプローチ(1) 安芸宮島・厳島神社
  宮島口駅まで あと5駅」
 JR西日本、広島駅を出た山陽本線の各駅停車の路線。停車するホームの手すり(防護柵)にある案内標識が、それぞれの駅ごとに設けられてある(写真)。

 
 
 「宮島へ」
 「はやる気持ち」に「もう少しですよ」と、待ったをかける。その一方で、「あなご飯 ほっかほか~♪」の表示が、楽しみを増幅させてくれて、「ニクイ」こと。

 紹介の食材
 それは「牡蠣」、「備後タコ」などなど、各駅ごとにことなるようである。宮島の食材の豊富さを示しつつ、訪問者の口にあうよう代表的な提供方法が示される。「今回は、なにを食べよう、か」。

 訪問の積み重ね
 宮島には「今回の」の積み重ねが、訪問者心理にはありそう。「積み重ね」とは、なにか?。多くの人にとっては「観光」でも、少なからずの人が「厳島信仰」で訪問するから、か。
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蒙御免候
 28日出発。2日帰宅。お江戸の眉毛付近を、蒙御免候。



 晴天に恵まれ、宮島は弥山(みせん)頂上で初雪。



 12時43分が干潮で、大鳥居にも到着。実は、虹が見えた。

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前田正名編『興業意見』
 前田正名編『興業意見』。1884年の時点でまとめられた、明治政府の勧業政策を体系化した試み。

 国力増強、輸出外貨獲得、強兵の前に富国の道を示す。

 ために農工商を一体的に関連づける理念のもと、農村伝統工業を秩序化し、品質向上をめざしつつ、金融支援で農民の資金力を高めて<投げ売り>を防ぎ、生産者を利する価格形成の必要性を提示。

 1877年の西南戦争。薩長政権内の秩序化を果たした一方、多額の戦費調達で生じたインフレ状態を、性急なデフレ政策で<ツジツマ>を合わせようとした。

 そこを緻密な統計で推移を追うと、明治13年、14年の農村疲弊があきらかとなり、北海道移住などで<不満・不平士族>の移転を強行したが、本書では「望ましい状況にはない」と、する。

 政局の安定、戦後処理、農村伝統工業の疲弊。前田らは薩長政権の内部にあって、<勧業>という名の<本格的民政>を体系化して明示することをめざしたのでは、ないだろうか。

 英、仏、米。そこに肩をならべる道を、選択。<国内産業の強化>で国際社会に伍してゆくことをめざすので、あるが。

 本書には1884年8月刊の「未定稿」と同12月公刊の「定稿」があったこと、著名である。その理由につて、解題では、3点をあげる。

 1)国力増強の構想を、国内伝統産業の強化より国外技術の依存と移転で達成する施策が選ばれた、2)政権の中枢にあった松方施策を否定するものであった、3)資金支援の興業銀行構想はあまりに資金が必要で当時の財政規模では対応不能であった。そういうことであったと、読む。

 編者が農商務省大書記官時代の労作。
 「未定稿」と「定稿」の間の差。そこには人脈、時代観、経営構想の違いが向き合っているのであるが。(『興業意見・所見 前田正名』 明治大正農政経済名著集1 農山漁村文化協会 1978年)。
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