母の着物
母の遺した着物は箪笥の中に今もぎっしり詰まっており
もう亡くなってから五年も経つもののまだ私が手を付けていないもののひとつである。
ただ 母がとりわけ気に入っていた大島紬の一反は 葬式が済んだあと
市内に住む姉が 「これは私へくれると(生前)約束してたものだから」と 父へ断って持って行ったという。
その頃 わたしは生家にはおらず 他県に一人住まいをし
都内へ仕事に通っていた。
居所は両親には教えてあったが 父は 母が亡くなったことをわたしには知らせず
長女である姉夫婦仕切る元 近親の者だけで 葬儀をすませてしまった。
ある年の秋、台風一過の明け方に、わたしはただならぬ夢にうなされていた。
夢枕に立つ白装束の母の姿にとにかく、と 急ぎ生家に帰って
父の口から 母の死を聞かされのは 亡くなってから既に二年後のことだった。
きのう 「たんす屋」という 着物を扱う店先で 大島紬の何反かを見ているとき
母が持っていたのと良く似ているのがあった。
不思議なことに わたしは 母のその紬を 形見分け を せぬうちに早々と持って行った姉のことを とくに責める気持ちにはならない。
店には 色々と 手頃な値の物が並んでいて
春の江ノ島 鎌倉を散策するのに どうかしら、とすこし見て歩いた。
店のひとも 「ご予算内でいかようにも見て差し上げますよ」と 親切に言ってくださった。
わたしの頭には 昔 二十歳の記念にと ひとり 京都へ旅行した際
三松本店で 正絹の、まゆを桃色に染め上げたような美しい付け下げを 思い切って買い求めたことなど
ちらりと 浮かんでいた。

izayoi