雑感雑記
塩沢兼人が死んだ。

なんてーか、まだまだ全然若い(ってーか、年知らないけど、でも、若いよねぇ?)ひとなので、思いもかけない出来事でした。事故だと云うことなので、本人だって思いもしていなかったでしょう;^^)A 驚きました。

尾崎が死んだときも、司馬遼太郎が死んだときも、石ノ森章太郎が死んだときも、取り返しのつかないものを喪ったなぁという気が凄くして、今から何が出来るわけでも、そもそも生きていたからってその人と私の間に何かが産まれようもないのだけど、それでも、なんだか、取り返しがつかない、と言う感じだけがやたらとあって――。喪失感って言うのは、こういうものなのかなぁと、微かに思います。会ったことがない人でさえ、こんなふうに思うのだから、恋人や夫や子供を失ったショックって、どんなものなんだろう、と思うと怖いですね;^^)A

ただ、こうした作家さんやアーティストと云った人たちの死、と云うのは、認識があっても、実際のところ私は生の声も生の姿も知らないし、リアルタイムのお喋りとかも聞いたことはないので(ラジオとかも聞いてなかったし)、酷くリアリティのない認識なんですね。
それなのに、その人の作品とかに触れると、もう二度と彼から新しいものは生まれてこないのだ、ということに思いが行っちゃって、それが、喪われた、と云う認識になるのです。とても、のんびりとした――と云うのも変なのですが、テンポのずれた哀しさです。だから、何となくではありますが、池にでも投げ込まれた小石のように、波紋だけが悲しみとして届いてくるような――。
同居し、親しくしていたものの死というのは、私にとっては犬猫の死しか経験が無くて、それも、犬の場合は外犬だし。やっぱり、庭に顔を出したときに、私に甘える犬の顔が無くて、それで、もういないんだなぁ――という切ない気持ちになるのですが、でも、庭を見なければあまりそういう気持ちも出て来ないし。
やっぱり、投げ込まれた石が心の底でごろごろしているみたいに、波が立つと「ああ――」と思い出して岸が濡れて、だけど、静かにしていれば何となく通り過ぎちゃ得るものでもあったりして。

――何書いてんだかよく分かんなくなってきた。

要するになんてーか、寂しいなぁと。
そういうことさ;^^)A