2003年03月の記事
2003 03/22 20:57
Category : 日記
「暑さ寒さも彼岸まで」とよくいうが、お彼岸の鎌倉はまだ寒かった。ガラス越しの陽射しは、かなり温かかったが、外はまだ風が冷たく感じた。
それでも、見なれた鎌倉の山越しの東京湾は、微かに霞んで見えた。山のあちこちには梅の花が咲き、桜の枝先は、咲き始めるのを待つだけになった桜の蕾で、うっすらと紅を差したように色づいていた。
春の山の稜線が、うっすらと霞んで見えるのは、きっと春霞のせいだけではなく、こんな春の訪れを待つ花達の色づきのせいでもあるのだろう
暖冬といわれた今年だが、思ったよりは春の訪れは遅くなりそうだ。
それでも娘は、桜が咲く頃には自分も中学生になるせいか、こぼれ落ちそうに膨らんだ桜の蕾を指差して「もう咲きそうだね」と嬉しそうに笑っていた。
その娘の頬の色と、山の稜線のすこしぼやけた薄もも色と重なっているのを見ていたら
春が来るのを、もう少しだけゆっくり待っても良いんじゃないかな?
そんな気持ちにさせてくれる景色だった
それでも、見なれた鎌倉の山越しの東京湾は、微かに霞んで見えた。山のあちこちには梅の花が咲き、桜の枝先は、咲き始めるのを待つだけになった桜の蕾で、うっすらと紅を差したように色づいていた。
春の山の稜線が、うっすらと霞んで見えるのは、きっと春霞のせいだけではなく、こんな春の訪れを待つ花達の色づきのせいでもあるのだろう
暖冬といわれた今年だが、思ったよりは春の訪れは遅くなりそうだ。
それでも娘は、桜が咲く頃には自分も中学生になるせいか、こぼれ落ちそうに膨らんだ桜の蕾を指差して「もう咲きそうだね」と嬉しそうに笑っていた。
その娘の頬の色と、山の稜線のすこしぼやけた薄もも色と重なっているのを見ていたら
春が来るのを、もう少しだけゆっくり待っても良いんじゃないかな?
そんな気持ちにさせてくれる景色だった
2003 03/20 21:13
Category : 日記
イラクで爆撃が始まった
自分に守りたいものが出来たせいか、それとも年を重ねいろいろな想いを抱くようになったせいか?TVに映る爆撃されるバグダッドの街を見た時、12年前の湾岸戦争のときよりもずっと恐怖感を感じた
遠い国で起きているこの戦争が、こんなにも身近に感じられるのはどうしてだろうか?
子供達の間に、まだ日本にミサイルが飛んでくるという噂が消え残っているせいだろうか?
誰かが、引き金に指をかけて、じっと息を殺して構えている
その銃口が向けられた先には、もしかしたら、私達の生活があるのかも知れないのだ
その銃口の持つ、冷たく鈍く光る気配を、何処かに感じる気がするのだ
皆が、なにかが違うと気付いているのに、なにが違うのかを答えられない
少しづつ掛け違ってしまったボタンのつじつま、何時の間にか合わなくなった歯車
ずっと昔からのことだからと言われても、私達は今を未来に向かって生きているのだ
私達が、考えなくては行けないことは、この地球という星を、いかに明日という未来に運んでいくか?ではないのだろうか?
明日という日を、どう迎えることが出来るか?それを考えるべきなのではないだろうか?
明日という日は、決して過去の清算をするために存在するわけではないと思う
自分に守りたいものが出来たせいか、それとも年を重ねいろいろな想いを抱くようになったせいか?TVに映る爆撃されるバグダッドの街を見た時、12年前の湾岸戦争のときよりもずっと恐怖感を感じた
遠い国で起きているこの戦争が、こんなにも身近に感じられるのはどうしてだろうか?
子供達の間に、まだ日本にミサイルが飛んでくるという噂が消え残っているせいだろうか?
誰かが、引き金に指をかけて、じっと息を殺して構えている
その銃口が向けられた先には、もしかしたら、私達の生活があるのかも知れないのだ
その銃口の持つ、冷たく鈍く光る気配を、何処かに感じる気がするのだ
皆が、なにかが違うと気付いているのに、なにが違うのかを答えられない
少しづつ掛け違ってしまったボタンのつじつま、何時の間にか合わなくなった歯車
ずっと昔からのことだからと言われても、私達は今を未来に向かって生きているのだ
私達が、考えなくては行けないことは、この地球という星を、いかに明日という未来に運んでいくか?ではないのだろうか?
明日という日を、どう迎えることが出来るか?それを考えるべきなのではないだろうか?
明日という日は、決して過去の清算をするために存在するわけではないと思う
2003 03/20 01:06
Category : 日記
【魔女の宅急便】 スタジオジブリ作品
私のお薦めNo.1は、宮崎駿監督の「魔女の宅急便」です。
このアニメは、宮崎駿監督が、田舎から都会に出てきて頑張っているアニメーターの女の子達に、エールを送るために作ったといわれている作品です。
「13歳になると一年間修行に出なくてはいけないという」魔女のしきたりにしたがって、少女キキは黒猫のジジとお父さんからもらったラジオをお共に旅に出ます。
憧れの海が見える街にたどり付き、そこで人のいいパン屋のオソノさんに出会います。空を飛ぶこと以外はなにも特技の無かったキキは、オソノさんに世話になりながら、荷物の配達の仕事を始めます。いろいろな人と出会い、またその人達の助けを借りることで、困難に遭いながらも明るく生きて行こうとします。
その姿は、まさに宮崎駿監督がエールを送りたかった、「頑張っている女の子」達の姿であり、それを見守る監督のあたたかい眼差しをストーリーや映像の端々に感じることが出来る映画です。
荒井由美の♪やさしさに包まれたなら♪が流れるエンディングで、キキが故郷の両親に宛てた手紙の中の「いろいろあるけど、私は元気です」という一言に、物語の全てが集約されている気がします。
見終わった後に、「うん、私も明日からまた頑張ろう!」そんな元気をくれる映画です。
私のお薦めNo.1は、宮崎駿監督の「魔女の宅急便」です。
このアニメは、宮崎駿監督が、田舎から都会に出てきて頑張っているアニメーターの女の子達に、エールを送るために作ったといわれている作品です。
「13歳になると一年間修行に出なくてはいけないという」魔女のしきたりにしたがって、少女キキは黒猫のジジとお父さんからもらったラジオをお共に旅に出ます。
憧れの海が見える街にたどり付き、そこで人のいいパン屋のオソノさんに出会います。空を飛ぶこと以外はなにも特技の無かったキキは、オソノさんに世話になりながら、荷物の配達の仕事を始めます。いろいろな人と出会い、またその人達の助けを借りることで、困難に遭いながらも明るく生きて行こうとします。
その姿は、まさに宮崎駿監督がエールを送りたかった、「頑張っている女の子」達の姿であり、それを見守る監督のあたたかい眼差しをストーリーや映像の端々に感じることが出来る映画です。
荒井由美の♪やさしさに包まれたなら♪が流れるエンディングで、キキが故郷の両親に宛てた手紙の中の「いろいろあるけど、私は元気です」という一言に、物語の全てが集約されている気がします。
見終わった後に、「うん、私も明日からまた頑張ろう!」そんな元気をくれる映画です。
2003 03/15 02:05
Category : 日記
今日、子供達が大きな声でケンカをしながら帰って来た。
なんか、いつものケンカと様子が違うようなので、「どうしたの?」と聞いてみると、いきなり息子が
「俺たち三日後に死んじゃうんだよね?」とわたしに聞いて来た
「なんで?死んじゃうの?そんなことないよ」というと。今度は娘が
「あのね、学校でね、北朝鮮のミサイルが三日後に飛んでくるから、みんな死んじゃうんだ!っていう噂が広がってるの。でもさ、日本は条約を結んだんだから、大丈夫だって言ってもさ、そんなの関係ないって言うんだよ?コイツ」
「だってさ、ミサイル飛んでくるんだよ?死んじゃうじゃん!」とまた息子が反撃する。「だから〜、日本はこの前条約を結んだの!」とまた娘が言い返す。
わたしは一瞬戸惑ってしまった。息子が言っていることも、娘が言っていることも、、どちらも大きな意味では間違ってはいないのだ
確かに、日本は条約を結んだ。でも、条約を結んでいたとしても、それを相手が守らなければなんの意味もなさないのも事実だ
「ねえママ、わたしちゃんと卒業式できるよね?」もう数日後に小学校の卒業式を控えた娘は、本当に不安そうにわたしに聞いてきた
「うん、大丈夫よ。」少し無責任かな?とも思ったが、私はそう言って娘を抱きしめた。
すると息子も「ねえ、オレも死ななくていいの?」と不安そうに聞いてきた
「勿論だよ!」そういって今度は息子を抱きしめた。
でも、まだ息子はミサイルが恐いらしい
「ねえ、誰がミサイルから守ってくれるの?」と聞いてきた
「そうだな、日本には自衛隊っていって日本を守る人がいるし、アメリカの基地もあるしね。」
「そうなんだ、でもさ戦争になったらさ、オレ達はぐれちゃうんだよね?」とまた息子が聞いてきた
「ん?なんで?」と聞き返すと
「だって、戦争の映画とかではみんなはぐれているじゃん!オレ一人になるのは嫌だな」と息子が答えた
「大丈夫だよ、ちゃんとママが探しに行くから。ちゃんとママが守ってあげるからさ」
すると子供達は顔を見合わせて、タメイキをついた
「なに?ママが守るんじゃ不安なわけ?」
「そうじゃないけど…」と息子。
「だって、ママ方向音痴なんだもん」と娘
「やっぱ。パパに迎えに来てもらおう!」「そうだねそれなら大丈夫だ」「よかったね!」
???本当によかったか?
結局、本題は解決しないまま、変な落ちがついて話は終わってしまった。
しかし、わたしはまだ戸惑っていた。こんな小さな子供達の間でそんなことが噂になってしまうなんて
日本はいつからそんなに「きな臭い」国になってしまったのだろうか?
なんか、いつものケンカと様子が違うようなので、「どうしたの?」と聞いてみると、いきなり息子が
「俺たち三日後に死んじゃうんだよね?」とわたしに聞いて来た
「なんで?死んじゃうの?そんなことないよ」というと。今度は娘が
「あのね、学校でね、北朝鮮のミサイルが三日後に飛んでくるから、みんな死んじゃうんだ!っていう噂が広がってるの。でもさ、日本は条約を結んだんだから、大丈夫だって言ってもさ、そんなの関係ないって言うんだよ?コイツ」
「だってさ、ミサイル飛んでくるんだよ?死んじゃうじゃん!」とまた息子が反撃する。「だから〜、日本はこの前条約を結んだの!」とまた娘が言い返す。
わたしは一瞬戸惑ってしまった。息子が言っていることも、娘が言っていることも、、どちらも大きな意味では間違ってはいないのだ
確かに、日本は条約を結んだ。でも、条約を結んでいたとしても、それを相手が守らなければなんの意味もなさないのも事実だ
「ねえママ、わたしちゃんと卒業式できるよね?」もう数日後に小学校の卒業式を控えた娘は、本当に不安そうにわたしに聞いてきた
「うん、大丈夫よ。」少し無責任かな?とも思ったが、私はそう言って娘を抱きしめた。
すると息子も「ねえ、オレも死ななくていいの?」と不安そうに聞いてきた
「勿論だよ!」そういって今度は息子を抱きしめた。
でも、まだ息子はミサイルが恐いらしい
「ねえ、誰がミサイルから守ってくれるの?」と聞いてきた
「そうだな、日本には自衛隊っていって日本を守る人がいるし、アメリカの基地もあるしね。」
「そうなんだ、でもさ戦争になったらさ、オレ達はぐれちゃうんだよね?」とまた息子が聞いてきた
「ん?なんで?」と聞き返すと
「だって、戦争の映画とかではみんなはぐれているじゃん!オレ一人になるのは嫌だな」と息子が答えた
「大丈夫だよ、ちゃんとママが探しに行くから。ちゃんとママが守ってあげるからさ」
すると子供達は顔を見合わせて、タメイキをついた
「なに?ママが守るんじゃ不安なわけ?」
「そうじゃないけど…」と息子。
「だって、ママ方向音痴なんだもん」と娘
「やっぱ。パパに迎えに来てもらおう!」「そうだねそれなら大丈夫だ」「よかったね!」
???本当によかったか?
結局、本題は解決しないまま、変な落ちがついて話は終わってしまった。
しかし、わたしはまだ戸惑っていた。こんな小さな子供達の間でそんなことが噂になってしまうなんて
日本はいつからそんなに「きな臭い」国になってしまったのだろうか?
2003 03/12 11:02
Category : 日記
「サムシングフォー」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
マザーグースの詩の中にも歌い込まれているのだが、4つの何か(Something)を花嫁が結婚式当日に身に着けていくと必ず幸せな生活が送れると詠い伝えだ。
4つのサムシングは
「サムシングブルー」何か青いもの(「青い鳥」同様、幸を呼ぶ色と言われており、忠実・信頼を象徴とされる色)
「サムシングオールド」古いもの(古いものは謙虚な心を意味し、受け継がれてきたものを大切に譲り受けていくという想いが込められている)
「サムシングニュー」新しいもの(新しい生活へ踏み出す大事な第一歩をあらわす)
「サムシングボロー」借りたもの(幸運を分けてもらうという意味を表し、家族だけではなく周囲の人々から愛されるというおまじないでもある)
*ウエディングプレス・ドットコム/「サムシングフォーって?」より引用
つまり、本来は幸福な結婚のためのおまじないなのだが、私はなんとなくこの「サムシングフォー」が好きで、以前からなにか新たな生活へのスタートを切るときに、縁起として取り入れるようにしていた。
そして先日の話。もうすぐ小学校を卒業する娘が卒業式で着る洋服をどうしようか?という事になった。
今、娘達世代の女の子の間では、チェックのプリーツスカートにブレザーという、アイビーテイストのまるで高校生の制服のような服が流行っている。
通販のカタログなどを見ながら、娘もそういう感じの服が欲しいと言う。
今度買いに行こうか?と話をしていて、ふと私が昔着ていたチェックのスカートがあることを思い出した。
もう20年くらい前、学生時代に私が履いていたスカートだから、娘にしたらかなり丈が長い。しかし娘は、グレーとエンジのチェック柄がえらく気に入った様子で、出来ればこのスカートの丈を直して卒業式に履きたいと言い出した。
「本当にそんなお古でいいかしら?」迷った私は、親友に相談した。すると今度は親友が、自分が若い頃に着ていたジャケットがあるから見てみないかと言い出した。
早速持ってきてもらうと、当時流行ったデザイナーズブランドのもので、上着丈が短めで中々オシャレな感じで、娘が着てもおかしくないデザインのものだった。サイズも、少し小さめな体格をしている親友のサイズが、今の娘にピッタリで、私のお古のスカートに合わせてもいい感じだった。
娘は、その友人のジャケットと、私のスカートを着て卒業式に出たいという。
親友も、「本人が良いと言うんだし、見た目もおかしくないから良いんじゃない?」と言う。
早速、私はチェックのプリーツスカートの丈をを、娘に合わせて仕立て直し、中に着るブラウスだけを新しく買いに行くことにした。
私が親友に、「まるでサムシングフォーだね」と言うと、親友も「そうだね、まあ、ある意味
新しい生活への第一歩なんだから良いんじゃない?」と言って笑っていた。
そして数日後、親友が4つのサムシングのうち娘に足りなかった「サムシングブルー」のアイテムを届けに着てくれた。とてもきれいな青いビーズで作られたブレスレットだった。
娘にとっての”サムシングフォー”それは、心から娘の幸せを願い、支えてくれている人達の存在の証しのように思えた。
マザーグースの詩の中にも歌い込まれているのだが、4つの何か(Something)を花嫁が結婚式当日に身に着けていくと必ず幸せな生活が送れると詠い伝えだ。
4つのサムシングは
「サムシングブルー」何か青いもの(「青い鳥」同様、幸を呼ぶ色と言われており、忠実・信頼を象徴とされる色)
「サムシングオールド」古いもの(古いものは謙虚な心を意味し、受け継がれてきたものを大切に譲り受けていくという想いが込められている)
「サムシングニュー」新しいもの(新しい生活へ踏み出す大事な第一歩をあらわす)
「サムシングボロー」借りたもの(幸運を分けてもらうという意味を表し、家族だけではなく周囲の人々から愛されるというおまじないでもある)
*ウエディングプレス・ドットコム/「サムシングフォーって?」より引用
つまり、本来は幸福な結婚のためのおまじないなのだが、私はなんとなくこの「サムシングフォー」が好きで、以前からなにか新たな生活へのスタートを切るときに、縁起として取り入れるようにしていた。
そして先日の話。もうすぐ小学校を卒業する娘が卒業式で着る洋服をどうしようか?という事になった。
今、娘達世代の女の子の間では、チェックのプリーツスカートにブレザーという、アイビーテイストのまるで高校生の制服のような服が流行っている。
通販のカタログなどを見ながら、娘もそういう感じの服が欲しいと言う。
今度買いに行こうか?と話をしていて、ふと私が昔着ていたチェックのスカートがあることを思い出した。
もう20年くらい前、学生時代に私が履いていたスカートだから、娘にしたらかなり丈が長い。しかし娘は、グレーとエンジのチェック柄がえらく気に入った様子で、出来ればこのスカートの丈を直して卒業式に履きたいと言い出した。
「本当にそんなお古でいいかしら?」迷った私は、親友に相談した。すると今度は親友が、自分が若い頃に着ていたジャケットがあるから見てみないかと言い出した。
早速持ってきてもらうと、当時流行ったデザイナーズブランドのもので、上着丈が短めで中々オシャレな感じで、娘が着てもおかしくないデザインのものだった。サイズも、少し小さめな体格をしている親友のサイズが、今の娘にピッタリで、私のお古のスカートに合わせてもいい感じだった。
娘は、その友人のジャケットと、私のスカートを着て卒業式に出たいという。
親友も、「本人が良いと言うんだし、見た目もおかしくないから良いんじゃない?」と言う。
早速、私はチェックのプリーツスカートの丈をを、娘に合わせて仕立て直し、中に着るブラウスだけを新しく買いに行くことにした。
私が親友に、「まるでサムシングフォーだね」と言うと、親友も「そうだね、まあ、ある意味
新しい生活への第一歩なんだから良いんじゃない?」と言って笑っていた。
そして数日後、親友が4つのサムシングのうち娘に足りなかった「サムシングブルー」のアイテムを届けに着てくれた。とてもきれいな青いビーズで作られたブレスレットだった。
娘にとっての”サムシングフォー”それは、心から娘の幸せを願い、支えてくれている人達の存在の証しのように思えた。
2003 03/11 11:46
Category : 日記
昨年の二月のある日、当時9歳だった息子が突然歩けなくなった。数日前からの風邪に寄る発熱も収まり、ホットした直後の事だった
つま先立ちになり、少し膝を曲げて、腰を落として背中を丸めた姿勢にならないと歩くことが出来なかった、とにかく膝を曲げても伸ばしても痛いらしく、床に座らせて見ると、足を投げ出して座ることが出来ずに、膝を軽く曲げていた。
慌てて地元の総合病院で診察してもらうと、「アレルギー性紫斑病」という学童期に見られる病気ではないか?と言われ、一週間ほどでよくなると言われた。
この病気は、風邪などにかかり免疫力が低下した時に、血管から血液が漏れ出してしまう病気で、その出血が皮下で起こると紫斑に、関節で起こると関節が腫れて痛みが出る。また出血が腸で起こると激しい腹痛に襲われ、膀胱などで起こると血尿が出るのだという。
確かによくみると、息子の右膝と右のくるぶしは少し腫れていて、膝下に米粒ほどの紫斑が数個確認された。検査してみると血尿も出ていた。
しかし、一週間経っても息子の病状変わらずかえって痛みは強くなっていた。足を殆ど上げることが出来ない息子は、当然登校も出来ないため、ずっと学校を休むことになってしまった。
それから、一ヶ月の間に、ありとあらゆる検査をしてみたが、特に異常は見られず、大学病院への転院をすることになった。
大学病院で通院しながらまた検査を受けることになったが、依然として原因は不明のままだった。
病状の改善が進まないことを心配した、カート仲間が、ソフトカイロプラティクスでの治療を勧めてくれたので、私はわらにもすがる思いで、その治療も受けることにした。
すると、その効果が出たのか病状が少しづつ改善して来た。大学病院の方では、検査の為に二週間ほど入院もしてみたが、原因の解明は出来なかった。
カイロプラティクスの治療をはじめて二ヶ月が経った5月の中旬になってやっと、学校へ登校出来るようになった。
つまり、約3ヶ月の間、歩くことも、表に出ることもできなかったのだ。
ようやく、日常生活が戻ってきたある日。息子はカートに乗りたいと言い出した。
取り敢えず練習に行ってみようと、約7ヶ月ぶりにカート場に繰り出した。しかし、カートに乗るにはかなり体力が要る。スピードやハンドリングに対しての勘も、練習に耐えるだけの筋力も体力もすっかり落ちてしまった息子には、かなりキツかったようだった。
それから、毎週息子のカートリハビリが始まった。少しづつ体力をつけ、スピードに慣れ、レースに出せるくらいの状態になるまで二ヶ月近くの時間がかかった。
ようやく、病気になる前の状態にまで戻ったある日、また息子にアクシデントが襲いかかった。
練習中にカートでスピンして、今度は肋骨にひびが入ってしまったのだ。
上り調子で、かなり乗れて来ていただけに、このドクターストップは痛かった。
結局、息子がレースに復帰出来たのは、12月の事になってしまった。
発病から10ヶ月経った12月の中旬、息子は潮来サーキットで行なわれたフレッシュマンレースの最終戦にエントリした。
この一年の間、殆ど練習も出来ていない息子が、まともなレースなどできないことは最初からわかっていた。しかし、息子は、レースに復帰することで、病気が完治したのだという実感が欲しかったのだと思う。
レース前日は、朝から雨が降る寒い日だった。それでも息子は、その雨の中で、コース上に出来た水溜りの泥水を浴びながら、一生懸命練習していた。
雨女の姉を持っているせいか、息子も雨の走りには定評があった。もし、このままレース当日も雨が降るようなことになったら…。ドライのレースでは、結果が見えていたのだが、息子は最後まで諦めたくなかったのだろうと思う。
しかし、レース当日は前の日と打って変わった晴天になり、予選で健闘したにも係わらず、最終的にはビリになってしまった。
レースを終えてPITに戻って来ても、息子はヘルメットを取ろうとはせず、椅子に座ってずっとうつむいていた。
そんな息子に向かって、私はこう話かけた。
「一年近くブランクがあるんだもん、仕方がないじゃない?よく頑張ったよ」
しかし、なっとくしていないのか、息子は返事をしようとしない
ジュニアのレースの場合。エンジンの調子がレースを左右することが多いのだが、そのエンジン元々の個体差がかなり激しいため、普通は主催者側からレンタルされるエンジンでレースをする事が多いのだが、たまたま潮来でのレースは、自前のエンジンを持ちこんでレースをする方式を取っていた。
ジュニア用のエンジンはなかなかメンテナンスも難しく、調子を保つことは大変なのだ。しかし、息子が体調が悪い間、我家のエンジンは一度も回すことが出来なかったために、あまりエンジンの調子もよくなかった。
だが、いくら結果が見えていたとは言っても、実際に結果を見せられて傷つくのは、レースに出た本人である。
私はもう一度息子に向かって話しかけて見ることにした。
「ねえ、本当はもうレースに出たくないんじゃないの?カート辞めたかったら辞めてもいいよ?」
すると息子は、ようやく顔を上げた。そして、ヘルメット越しに私の顔をじっと見ていた。
しばらくして、ようやく息子が口を開いた。
「オレやっぱりカートに乗るのが好きなんだ。だから、どんなに大変でもカートは辞めたくない。でもね、(エンジンのこともあるから)ジュニアのレースにはもう出たくない。それでも、カート続けてもいい?」不安そうに私の顔を覗きこみながら、そう言った。
「そっか、わかったよ。じゃあ、もうジュニアのレースには出なくていいよ。今度から大人用のエンジンで練習して、12歳になってレースに出たくなったら、大人の人と一緒にレースに出ればいいじゃん」
すると息子は、安心したようにニコッと笑うと、やっとヘルメットをはずして、大きく深呼吸をした。
私達は、子供達のサポートクルーとして出来るだけのことをしていけば良いのだと思う。子供達の進む道を、勝手に選ぶことも、ましてや子供達の変わりにドライバーになることも出来ないのだ。だとしたら、子供が楽しいと思える環境をサポートしてやることが大事なのであって、決してレースの結果だけを求めているわけではない。
息子にとって、もうジュニアのレースには出ないと言い出すことは、かなりの英断だったと思う。しかし私は、その息子の英断を出来るだけ支えてやりたいと思っている。
つま先立ちになり、少し膝を曲げて、腰を落として背中を丸めた姿勢にならないと歩くことが出来なかった、とにかく膝を曲げても伸ばしても痛いらしく、床に座らせて見ると、足を投げ出して座ることが出来ずに、膝を軽く曲げていた。
慌てて地元の総合病院で診察してもらうと、「アレルギー性紫斑病」という学童期に見られる病気ではないか?と言われ、一週間ほどでよくなると言われた。
この病気は、風邪などにかかり免疫力が低下した時に、血管から血液が漏れ出してしまう病気で、その出血が皮下で起こると紫斑に、関節で起こると関節が腫れて痛みが出る。また出血が腸で起こると激しい腹痛に襲われ、膀胱などで起こると血尿が出るのだという。
確かによくみると、息子の右膝と右のくるぶしは少し腫れていて、膝下に米粒ほどの紫斑が数個確認された。検査してみると血尿も出ていた。
しかし、一週間経っても息子の病状変わらずかえって痛みは強くなっていた。足を殆ど上げることが出来ない息子は、当然登校も出来ないため、ずっと学校を休むことになってしまった。
それから、一ヶ月の間に、ありとあらゆる検査をしてみたが、特に異常は見られず、大学病院への転院をすることになった。
大学病院で通院しながらまた検査を受けることになったが、依然として原因は不明のままだった。
病状の改善が進まないことを心配した、カート仲間が、ソフトカイロプラティクスでの治療を勧めてくれたので、私はわらにもすがる思いで、その治療も受けることにした。
すると、その効果が出たのか病状が少しづつ改善して来た。大学病院の方では、検査の為に二週間ほど入院もしてみたが、原因の解明は出来なかった。
カイロプラティクスの治療をはじめて二ヶ月が経った5月の中旬になってやっと、学校へ登校出来るようになった。
つまり、約3ヶ月の間、歩くことも、表に出ることもできなかったのだ。
ようやく、日常生活が戻ってきたある日。息子はカートに乗りたいと言い出した。
取り敢えず練習に行ってみようと、約7ヶ月ぶりにカート場に繰り出した。しかし、カートに乗るにはかなり体力が要る。スピードやハンドリングに対しての勘も、練習に耐えるだけの筋力も体力もすっかり落ちてしまった息子には、かなりキツかったようだった。
それから、毎週息子のカートリハビリが始まった。少しづつ体力をつけ、スピードに慣れ、レースに出せるくらいの状態になるまで二ヶ月近くの時間がかかった。
ようやく、病気になる前の状態にまで戻ったある日、また息子にアクシデントが襲いかかった。
練習中にカートでスピンして、今度は肋骨にひびが入ってしまったのだ。
上り調子で、かなり乗れて来ていただけに、このドクターストップは痛かった。
結局、息子がレースに復帰出来たのは、12月の事になってしまった。
発病から10ヶ月経った12月の中旬、息子は潮来サーキットで行なわれたフレッシュマンレースの最終戦にエントリした。
この一年の間、殆ど練習も出来ていない息子が、まともなレースなどできないことは最初からわかっていた。しかし、息子は、レースに復帰することで、病気が完治したのだという実感が欲しかったのだと思う。
レース前日は、朝から雨が降る寒い日だった。それでも息子は、その雨の中で、コース上に出来た水溜りの泥水を浴びながら、一生懸命練習していた。
雨女の姉を持っているせいか、息子も雨の走りには定評があった。もし、このままレース当日も雨が降るようなことになったら…。ドライのレースでは、結果が見えていたのだが、息子は最後まで諦めたくなかったのだろうと思う。
しかし、レース当日は前の日と打って変わった晴天になり、予選で健闘したにも係わらず、最終的にはビリになってしまった。
レースを終えてPITに戻って来ても、息子はヘルメットを取ろうとはせず、椅子に座ってずっとうつむいていた。
そんな息子に向かって、私はこう話かけた。
「一年近くブランクがあるんだもん、仕方がないじゃない?よく頑張ったよ」
しかし、なっとくしていないのか、息子は返事をしようとしない
ジュニアのレースの場合。エンジンの調子がレースを左右することが多いのだが、そのエンジン元々の個体差がかなり激しいため、普通は主催者側からレンタルされるエンジンでレースをする事が多いのだが、たまたま潮来でのレースは、自前のエンジンを持ちこんでレースをする方式を取っていた。
ジュニア用のエンジンはなかなかメンテナンスも難しく、調子を保つことは大変なのだ。しかし、息子が体調が悪い間、我家のエンジンは一度も回すことが出来なかったために、あまりエンジンの調子もよくなかった。
だが、いくら結果が見えていたとは言っても、実際に結果を見せられて傷つくのは、レースに出た本人である。
私はもう一度息子に向かって話しかけて見ることにした。
「ねえ、本当はもうレースに出たくないんじゃないの?カート辞めたかったら辞めてもいいよ?」
すると息子は、ようやく顔を上げた。そして、ヘルメット越しに私の顔をじっと見ていた。
しばらくして、ようやく息子が口を開いた。
「オレやっぱりカートに乗るのが好きなんだ。だから、どんなに大変でもカートは辞めたくない。でもね、(エンジンのこともあるから)ジュニアのレースにはもう出たくない。それでも、カート続けてもいい?」不安そうに私の顔を覗きこみながら、そう言った。
「そっか、わかったよ。じゃあ、もうジュニアのレースには出なくていいよ。今度から大人用のエンジンで練習して、12歳になってレースに出たくなったら、大人の人と一緒にレースに出ればいいじゃん」
すると息子は、安心したようにニコッと笑うと、やっとヘルメットをはずして、大きく深呼吸をした。
私達は、子供達のサポートクルーとして出来るだけのことをしていけば良いのだと思う。子供達の進む道を、勝手に選ぶことも、ましてや子供達の変わりにドライバーになることも出来ないのだ。だとしたら、子供が楽しいと思える環境をサポートしてやることが大事なのであって、決してレースの結果だけを求めているわけではない。
息子にとって、もうジュニアのレースには出ないと言い出すことは、かなりの英断だったと思う。しかし私は、その息子の英断を出来るだけ支えてやりたいと思っている。
2003 03/08 21:58
Category : 日記
今日、子供達と一緒に買い物に行った時、息子が急に「三国志の本を買って欲しい」と言い出した
息子が今はまっているゲームに、「三国無双」というのがある
これは、中国の三国志をモデルにしたゲームなので、登場人物も三国志そのものなのだ
ゲームにはまっていることは知っていたので、ゲームの攻略本を買うのかと思ったら、ちゃんとした「三国志」の本を買いたいのだと言う。
息子はそのゲームをやっているうちに、好きな武将が出来たらしく、その武将のことをもっと知りたいと思い始めたらしい
図書館で、子供向けにわかりやすくマンガがで描かれた三国志の本を読んだのだという
読めば読むほど、それぞれの武将の人柄や時代背景、国を攻める時の作戦の立て方などに興味が出てきて、ゲームにも三国志にものめりこんでしまったらしい
何軒かの本屋さんを廻って、やっとのことで子供向けにわかりやすく書かれた歴史図書の中に「三国志」を見つけた時、息子は思わず「あった!」と声を上げる程だった
さすがに「三国志」は長い話なので、上・中・下の三巻に分かれていたのだが、絶対読むから全部買ってくれとせがまれた
買い物から帰ってくると、「あ、関羽が出てきた!」とか言いながら、早速のめりこむようにして読んでいた
こんな形でも、いろいろなことの興味に繋げていく、子供の吸収力の高さに驚きながら、息子の成長も確認できた出来事だった。
息子が今はまっているゲームに、「三国無双」というのがある
これは、中国の三国志をモデルにしたゲームなので、登場人物も三国志そのものなのだ
ゲームにはまっていることは知っていたので、ゲームの攻略本を買うのかと思ったら、ちゃんとした「三国志」の本を買いたいのだと言う。
息子はそのゲームをやっているうちに、好きな武将が出来たらしく、その武将のことをもっと知りたいと思い始めたらしい
図書館で、子供向けにわかりやすくマンガがで描かれた三国志の本を読んだのだという
読めば読むほど、それぞれの武将の人柄や時代背景、国を攻める時の作戦の立て方などに興味が出てきて、ゲームにも三国志にものめりこんでしまったらしい
何軒かの本屋さんを廻って、やっとのことで子供向けにわかりやすく書かれた歴史図書の中に「三国志」を見つけた時、息子は思わず「あった!」と声を上げる程だった
さすがに「三国志」は長い話なので、上・中・下の三巻に分かれていたのだが、絶対読むから全部買ってくれとせがまれた
買い物から帰ってくると、「あ、関羽が出てきた!」とか言いながら、早速のめりこむようにして読んでいた
こんな形でも、いろいろなことの興味に繋げていく、子供の吸収力の高さに驚きながら、息子の成長も確認できた出来事だった。
2003 03/08 12:43
Category : 日記
私は、いわゆる「姉さん女房」である。
早生まれの私の方が主人よりも、二学年上なのだ。
主人は事ある毎に、その「2年」の違いを指摘して「自分は若い」と主張する。
なんか今の世の中の風潮として、若い方がもてはやされているせいか、なんとなく私は肩身が狭いような気がしていたのだが…
しかし、やはり二歳違いの姉さん女房である親友のうちでは、少し勝手が違うのだ
そのお宅では、「どちらが年上か」と言うことが優位に立つカギになっているらしいのだ。
当然、姉さん女房である友達の方が年が上なのだが、「年が上だということ=目上・年より」という図式が成立し、大事にされるべきだという事になるらしい
一体この違いはなんなんだろうか?
確かに、40代にもなるとちょっとしたことでも翌日に疲れが残ったりすることが多くなる。
ましてや、こどもがカートなんてやっていると
年々カテゴリーが上がるたびに子供乗るカートが大きくなり重くなっていくのに対して、親の体力は年を重ねる毎に衰えて行くので、だんだんと作業が辛くなってくる
どうも、友達の所ではその作業を手伝う手伝わない、という話から発展してそう言う結論に達したらしい
そのお宅のご主人がつぶやいていた「二つしか違わないんだから、俺だって疲れるし辛いんだぞ〜」という言葉が、妙に耳に残っている私でした。
早生まれの私の方が主人よりも、二学年上なのだ。
主人は事ある毎に、その「2年」の違いを指摘して「自分は若い」と主張する。
なんか今の世の中の風潮として、若い方がもてはやされているせいか、なんとなく私は肩身が狭いような気がしていたのだが…
しかし、やはり二歳違いの姉さん女房である親友のうちでは、少し勝手が違うのだ
そのお宅では、「どちらが年上か」と言うことが優位に立つカギになっているらしいのだ。
当然、姉さん女房である友達の方が年が上なのだが、「年が上だということ=目上・年より」という図式が成立し、大事にされるべきだという事になるらしい
一体この違いはなんなんだろうか?
確かに、40代にもなるとちょっとしたことでも翌日に疲れが残ったりすることが多くなる。
ましてや、こどもがカートなんてやっていると
年々カテゴリーが上がるたびに子供乗るカートが大きくなり重くなっていくのに対して、親の体力は年を重ねる毎に衰えて行くので、だんだんと作業が辛くなってくる
どうも、友達の所ではその作業を手伝う手伝わない、という話から発展してそう言う結論に達したらしい
そのお宅のご主人がつぶやいていた「二つしか違わないんだから、俺だって疲れるし辛いんだぞ〜」という言葉が、妙に耳に残っている私でした。
2003 03/08 12:18
Category : 日記
娘が数ヶ月前に初潮を迎えてから、私と娘の内緒話の回数が増えた
娘に生理についていろいろ指示をするために内緒話をしているのだ
「今月はもうきた?」とか「お腹痛くない?」とか、「まだ終わらない?」とか、娘の周期が安定しないので内容的には大した話ではない
別にコソコソとする必要もないのかも知れないのだが
大声で話すような内容ではないし、10歳の息子の目もあるのでなんとなくコソコソ話してしまっていたのだ
そんなある日、学校から帰って来た息子が私の目の前に、90点と採点されたテストをグイッと突き出して来た
「へ〜頑張ったジャン」と私が言うと、「もっとよく見てよ!」と息子が言った
「なによ〜、テストの点が良い時だけママのところに持ってくるんだから」と言うと
「違うよ、このテストは『からだのこと』についてのテストなんだぞ」と息子が言った
そう言われてテストを受けとってよく見てみると、男の人と女の人の体の構造の違いなどについてのテストだった
「オレだって、一生懸命勉強したんだ。ねえちゃんの血が出る病気(息子は生理をお尻から血がでる病気だと思っていたらしい)のことも勉強して覚えたんだ!病気じゃないんだよね、アレは」
私と娘のコソコソ話が、息子はすごく気になっていたらしい。そんな時、丁度学校で体について勉強したのだという
息子なりにおねえちゃんのことを理解したかったのだろう、その結果がこのテストの90点なんだということらしい
「そっか〜、頑張ったね」私がそう言うと、息子は納得したように自分の部屋に戻って行った
しばらくして娘が帰宅すると、まるで何もなかったかのように息子は普通に遊んでいた
でも、息子は息子なりに自分より少し早く大人になろうとしている姉のことを、理解しようと思っているんだと思う。
これからは、娘とあまりコソコソ話すのは止めるようにしようとも思った
生理は、女性なら誰にでもあることで、それは恥ずかしいことでも何でもないんだ。そんな事を、10歳の息子に教えられた気がした。
娘に生理についていろいろ指示をするために内緒話をしているのだ
「今月はもうきた?」とか「お腹痛くない?」とか、「まだ終わらない?」とか、娘の周期が安定しないので内容的には大した話ではない
別にコソコソとする必要もないのかも知れないのだが
大声で話すような内容ではないし、10歳の息子の目もあるのでなんとなくコソコソ話してしまっていたのだ
そんなある日、学校から帰って来た息子が私の目の前に、90点と採点されたテストをグイッと突き出して来た
「へ〜頑張ったジャン」と私が言うと、「もっとよく見てよ!」と息子が言った
「なによ〜、テストの点が良い時だけママのところに持ってくるんだから」と言うと
「違うよ、このテストは『からだのこと』についてのテストなんだぞ」と息子が言った
そう言われてテストを受けとってよく見てみると、男の人と女の人の体の構造の違いなどについてのテストだった
「オレだって、一生懸命勉強したんだ。ねえちゃんの血が出る病気(息子は生理をお尻から血がでる病気だと思っていたらしい)のことも勉強して覚えたんだ!病気じゃないんだよね、アレは」
私と娘のコソコソ話が、息子はすごく気になっていたらしい。そんな時、丁度学校で体について勉強したのだという
息子なりにおねえちゃんのことを理解したかったのだろう、その結果がこのテストの90点なんだということらしい
「そっか〜、頑張ったね」私がそう言うと、息子は納得したように自分の部屋に戻って行った
しばらくして娘が帰宅すると、まるで何もなかったかのように息子は普通に遊んでいた
でも、息子は息子なりに自分より少し早く大人になろうとしている姉のことを、理解しようと思っているんだと思う。
これからは、娘とあまりコソコソ話すのは止めるようにしようとも思った
生理は、女性なら誰にでもあることで、それは恥ずかしいことでも何でもないんだ。そんな事を、10歳の息子に教えられた気がした。
2003 03/06 20:36
Category : 日記
「雨上がりのにじ」
「はーちゃんとりょうくん、急いで帰るしたくをしなさい! あなたたちのお母さんが、会社でたおれて入院したんだって。今お父さんがむかえに来るそうよ」
いつもみたいに学童保育でママのむかえを待っていたら、そう言いながら福田先生がプレイルームにとび込んで来た。
(ママが入院した?なんで?うそでしょ?どうして?どうして?)頭の中に、今朝げんかんで「いってらっしゃい」と手をふってくれた、ママの顔が一杯になっていた。
「ついたよ」とパパの声がした。気がついたら、学校よりもずっと大きなビルの前に車は止まっていた。ママが入院した病院だった。弟のりょうが、のどちんこが見えるくらい大きな口をあけて、ビルを見上げて「でっけ〜」と言った。
ビルの中は少し暗くて、ほけん室みたいなにおいがした。
「あれ?はーちゃんじゃない?」と後ろから声がした。ふりかえるとやさしそうなかんごふさんがコッチを見ていた。(見た事あるような気もするけど、だれだっけ?)と思っていると、「こうちゃんのママ」とパパが言った。
そっか思い出した、こうすけのママだ。こうすけは、保育園から三年生になった今も、ずっといっしょのいじめっ子で、すぐに私にちょっかい出して来てはいじわるをしてくるいやなやつなんだ。こんどは頭の中に、こうすけがいじわるそうにニヤッとわらった顔が大きくうかんで来た。(なんでこんなにやさしそうな人から、こうすけみたいないじわるが生まれまれてきちゃったんだろう?)パパと話しながら歩いているこうすけのママの背中を見ながら、私はすごくふしぎに思った。
まっしろなカーテンの向こうのベッドの上にママがいた。ママのうでから、とうめいなチューブがのびていて、上の方のビンにつながっていて、そこでオレンジ色の水がポタポタと砂時計みたいに落ちていた。ママはすごく顔色が悪かった。(ママが死んじゃう!)って思って「ママしんじゃいやだ〜!」と言おうとした時、りょうがママにとびついてなき出した。
「しんぱいかけてごめんね」って、ママは青白い顔で言った。あんまり大声でりょうが先になきだしたもんだから、私は何も言えなくなってしまった。いつもいつもそうなんだ。りょうはチビだからって、すぐにママにあまえるんだ。なんかおねえちゃんってそんだと思った。
「ほらほら、そんな事したら、もっとママの病気が悪くなっちゃうだろ?」
パパがりょうをママのベッドから下ろして言った。ママが、りょうの頭をなでて、私たちの手をにぎりながら
「しんぱいかけてごめんね、ふたりともパパのお手伝いをしてあげてね?」と言うと、
「はーちゃんとりょうくんがいいこにしていれば、ママはすぐによくなるからね!しんぱいしなくてもだいじょうぶだよ!」とこうすけのママがウインクしながらそう言った。
(そっか、私たちがいい子にしてればママはすぐによくなるんだ! でも、いい子にするって、どうすればいいんだろう?)私はずっとずっと、いい子ってなんだろう?って考えていた。
次の日から、私がママのかわわりに学童保育にりょうをむかえに行って、つれて帰る事になった。でも、りょうはワガママばっかり言ってなかなかキチンと歩こうとしない。とうとう、「ぼくつかれた」って言って、とちゅうの公園のベンチでランドセルを下ろしてすわりこんでしまった。
「より道しちゃだめだよ、りょう。早く帰ろうよ!」って私が言っても、そっぽ向いてる。私はだんだんはらが立ってきた。
「あんたがそんな事ばっかりするから、ママは病気になっちゃったんだからね!」ってつい大きな声でどなってしまった。のどのおくがあつくなってきて、なみだがポロッとこぼれた。すると、りょうも、目にいっぱいためたなみだを、いっしょうけんめいこぼさないように、グッと歯を食いしばってコッチを見てた。(ヤバイ!言いすぎた) と思ったしゅんかん、
「な〜に兄弟ゲンカしてるんだよ!」
後ろから声がした。こうすけだった。(あー、またいじわるされる!)と思った。するとこうすけは、自分の自転車のカゴにりょうのランドセルをヒョイと乗せて、ビックリしているりょうに向かって
「おまえのねえちゃん、おこるとすげーこわいよな?」と言った。そして、
「後ろに乗ってしっかりつまれよ」と言うと、クルッとふりかえって
「オマエは後から帰ってこいよ!お・ね・え・ち・ゃ・ん!」
といつもみたいに、いじわるくニヤッっとわらいながら私にそう言った。何がおこったのかわかんなかった。ん〜?こうすけって、いじめっこなんじゃなかったの?頭の中がグルグルしていた。
「早くしないとおいてくぞ〜!」こうすけの後でえらそうにさけぶりょうに向かって
「ちょっとまってよ〜!」私はそう言って、こうすけの自転車をいっしょうけんめい追いかけた。風を切って走っていると、なんだかすごく気持ちがよかった。
その夜、ふとんに入ってうす暗いてんじょうを見ていたら、またママの事がしんぱいになってきた。(ママはもうねたかな〜?)
すると、となりのふとんからヒックヒックとしゃくりあげる声がする。いつもママといっしょにねてるりょうは、さびしくってねられないらしい。
「うるさいな、私、今日ウンと走ってつかれているだから。しずかにかにしてよ!」と私が言うと、いつもならなにか言い返してくるはずなのに、りょうはヒックヒックないてるままだった。
(しかたがないな。りょうはまだ一年坊主のあまえんぼうなんだもんな)私は、りょうのふとんに入って
「いい子にしてたら、ママが早くよくなるって、こうすけのママも言ってたでしょ?だからもうなかないの」
りょうの顔をのぞきこみながらそう言った。「おねえちゃんなんかママみたい」
そう言ってりょうはしずかに目をつむると、いつのまにかねてしまった。
次の日の帰り道も、こうすけはだまってまた自転車にりょうを乗せて私の前を走っていた。でも、きのうみたいにビュンビュンとばしてはいなかった。
その時、ポツッポツッ・・・いきなり夕立がふり出した。「いけな〜い、せんたく物ほしっぱなしだ!」すると
「オマエはコレに乗って先に帰れ!」自転車を止めてこうすけがさけんだ。
ベランダのせんたく物を全部カゴに入れ終わったころ、途中で雨やどりしていたこうすけとりょうが帰って来た。
「こうすけのおかげでバッチリだよ」と私が言うと、こうすけはちょっとてれくさそうにニヤッとわらった。
「わーきれい!見て見て!」りょうがまどの外を指さした。見上げると雨上がりの空に、きれいなにじがかかっていた。
「はーちゃんとりょうくん、急いで帰るしたくをしなさい! あなたたちのお母さんが、会社でたおれて入院したんだって。今お父さんがむかえに来るそうよ」
いつもみたいに学童保育でママのむかえを待っていたら、そう言いながら福田先生がプレイルームにとび込んで来た。
(ママが入院した?なんで?うそでしょ?どうして?どうして?)頭の中に、今朝げんかんで「いってらっしゃい」と手をふってくれた、ママの顔が一杯になっていた。
「ついたよ」とパパの声がした。気がついたら、学校よりもずっと大きなビルの前に車は止まっていた。ママが入院した病院だった。弟のりょうが、のどちんこが見えるくらい大きな口をあけて、ビルを見上げて「でっけ〜」と言った。
ビルの中は少し暗くて、ほけん室みたいなにおいがした。
「あれ?はーちゃんじゃない?」と後ろから声がした。ふりかえるとやさしそうなかんごふさんがコッチを見ていた。(見た事あるような気もするけど、だれだっけ?)と思っていると、「こうちゃんのママ」とパパが言った。
そっか思い出した、こうすけのママだ。こうすけは、保育園から三年生になった今も、ずっといっしょのいじめっ子で、すぐに私にちょっかい出して来てはいじわるをしてくるいやなやつなんだ。こんどは頭の中に、こうすけがいじわるそうにニヤッとわらった顔が大きくうかんで来た。(なんでこんなにやさしそうな人から、こうすけみたいないじわるが生まれまれてきちゃったんだろう?)パパと話しながら歩いているこうすけのママの背中を見ながら、私はすごくふしぎに思った。
まっしろなカーテンの向こうのベッドの上にママがいた。ママのうでから、とうめいなチューブがのびていて、上の方のビンにつながっていて、そこでオレンジ色の水がポタポタと砂時計みたいに落ちていた。ママはすごく顔色が悪かった。(ママが死んじゃう!)って思って「ママしんじゃいやだ〜!」と言おうとした時、りょうがママにとびついてなき出した。
「しんぱいかけてごめんね」って、ママは青白い顔で言った。あんまり大声でりょうが先になきだしたもんだから、私は何も言えなくなってしまった。いつもいつもそうなんだ。りょうはチビだからって、すぐにママにあまえるんだ。なんかおねえちゃんってそんだと思った。
「ほらほら、そんな事したら、もっとママの病気が悪くなっちゃうだろ?」
パパがりょうをママのベッドから下ろして言った。ママが、りょうの頭をなでて、私たちの手をにぎりながら
「しんぱいかけてごめんね、ふたりともパパのお手伝いをしてあげてね?」と言うと、
「はーちゃんとりょうくんがいいこにしていれば、ママはすぐによくなるからね!しんぱいしなくてもだいじょうぶだよ!」とこうすけのママがウインクしながらそう言った。
(そっか、私たちがいい子にしてればママはすぐによくなるんだ! でも、いい子にするって、どうすればいいんだろう?)私はずっとずっと、いい子ってなんだろう?って考えていた。
次の日から、私がママのかわわりに学童保育にりょうをむかえに行って、つれて帰る事になった。でも、りょうはワガママばっかり言ってなかなかキチンと歩こうとしない。とうとう、「ぼくつかれた」って言って、とちゅうの公園のベンチでランドセルを下ろしてすわりこんでしまった。
「より道しちゃだめだよ、りょう。早く帰ろうよ!」って私が言っても、そっぽ向いてる。私はだんだんはらが立ってきた。
「あんたがそんな事ばっかりするから、ママは病気になっちゃったんだからね!」ってつい大きな声でどなってしまった。のどのおくがあつくなってきて、なみだがポロッとこぼれた。すると、りょうも、目にいっぱいためたなみだを、いっしょうけんめいこぼさないように、グッと歯を食いしばってコッチを見てた。(ヤバイ!言いすぎた) と思ったしゅんかん、
「な〜に兄弟ゲンカしてるんだよ!」
後ろから声がした。こうすけだった。(あー、またいじわるされる!)と思った。するとこうすけは、自分の自転車のカゴにりょうのランドセルをヒョイと乗せて、ビックリしているりょうに向かって
「おまえのねえちゃん、おこるとすげーこわいよな?」と言った。そして、
「後ろに乗ってしっかりつまれよ」と言うと、クルッとふりかえって
「オマエは後から帰ってこいよ!お・ね・え・ち・ゃ・ん!」
といつもみたいに、いじわるくニヤッっとわらいながら私にそう言った。何がおこったのかわかんなかった。ん〜?こうすけって、いじめっこなんじゃなかったの?頭の中がグルグルしていた。
「早くしないとおいてくぞ〜!」こうすけの後でえらそうにさけぶりょうに向かって
「ちょっとまってよ〜!」私はそう言って、こうすけの自転車をいっしょうけんめい追いかけた。風を切って走っていると、なんだかすごく気持ちがよかった。
その夜、ふとんに入ってうす暗いてんじょうを見ていたら、またママの事がしんぱいになってきた。(ママはもうねたかな〜?)
すると、となりのふとんからヒックヒックとしゃくりあげる声がする。いつもママといっしょにねてるりょうは、さびしくってねられないらしい。
「うるさいな、私、今日ウンと走ってつかれているだから。しずかにかにしてよ!」と私が言うと、いつもならなにか言い返してくるはずなのに、りょうはヒックヒックないてるままだった。
(しかたがないな。りょうはまだ一年坊主のあまえんぼうなんだもんな)私は、りょうのふとんに入って
「いい子にしてたら、ママが早くよくなるって、こうすけのママも言ってたでしょ?だからもうなかないの」
りょうの顔をのぞきこみながらそう言った。「おねえちゃんなんかママみたい」
そう言ってりょうはしずかに目をつむると、いつのまにかねてしまった。
次の日の帰り道も、こうすけはだまってまた自転車にりょうを乗せて私の前を走っていた。でも、きのうみたいにビュンビュンとばしてはいなかった。
その時、ポツッポツッ・・・いきなり夕立がふり出した。「いけな〜い、せんたく物ほしっぱなしだ!」すると
「オマエはコレに乗って先に帰れ!」自転車を止めてこうすけがさけんだ。
ベランダのせんたく物を全部カゴに入れ終わったころ、途中で雨やどりしていたこうすけとりょうが帰って来た。
「こうすけのおかげでバッチリだよ」と私が言うと、こうすけはちょっとてれくさそうにニヤッとわらった。
「わーきれい!見て見て!」りょうがまどの外を指さした。見上げると雨上がりの空に、きれいなにじがかかっていた。
2003 03/06 17:20
Category : 日記
私が応募している、スポーツライター新人賞のサイト(小林 信也氏主催)で、新たに、独立リーグが設立された。
この独立リーグは、新人賞応募作の中で、独自のテーマを見い出した人のためのリーグで、私の書いている「レーシングカート参戦記」が、その独立リーグの初の該当作品として、そこに掲載される事になった。
(http://www.s-move.jp/writer/writer_works_dokuritsu.html)
まだまだ、デビューとは行かないが、一歩だけ踏み出せたような気がして、気持ちを新たに頑張って行こうと思っている
この独立リーグは、新人賞応募作の中で、独自のテーマを見い出した人のためのリーグで、私の書いている「レーシングカート参戦記」が、その独立リーグの初の該当作品として、そこに掲載される事になった。
(http://www.s-move.jp/writer/writer_works_dokuritsu.html)
まだまだ、デビューとは行かないが、一歩だけ踏み出せたような気がして、気持ちを新たに頑張って行こうと思っている
2003 03/05 20:55
Category : 日記
入力の仕事を、コンスタントにくれるところが見つかり、仕事を受け始めた。
すると、今度はスポーツライターのサイトから、「独立リーグを開始する準備が出来ました」というメールが入った。
取材の仕事と体験レポートの納期も目の前だった
そんな時、ライター仲間から、仕事を手伝って欲しいという連絡が入る
家の事情で納期が間に合わないのだという。
私はふたつ返事で受けることにして、他の仲間に声をかけたりする取りまとめ役をすることになった
始めての「プロ」の仕事は、緊張と不安が一杯だった
でも、突然お願いしたにもかかわらず、何人ものライター仲間が仕事を引き受けてくれたのだ
にわかに慌しくなり、私の時間が急速に廻り始めた気がした
夜更けにPCの前で原稿を書きながら、友達と電話で打ち合わせをし、他の仲間がいれてくれるメールに目をとして指示を出す
仕事で午前様になってしまった主人は、いつもなら、いかに仕事でも自分の前で私がPCをいじることをブツブツ言うのに、「適当なところで寝ろよ」と一言言うと、そのまま寝室に入って行った
真夜中の静寂の中に、私がキーボードを打ったり、資料をめくる音だけが響く
いつもならとっくに夢の中のはずなのに、私は全くと言って良いほど眠くはなかった
確かに、仕事として受けるライティングは、日記でエッセイを書くのとは訳が違う
いかに情報を詰め込むかという、作業と目前に迫った納期との戦いになり、なかなか進まない原稿に書くことの苦しさを見たような気がしたのだが
それでも、胸の奥の方では、トクトクと早い脈が打ち、どんなものであれ書ける喜びを確実に私に運んできてくれていた
仲間達からの原稿がメールで私の手元に届くたびに、同じ気持ちを抱いて作業をしてくれた仲間の声に、私は大きく頷きながら「お疲れ様でした」と返事を書いた
きっとこれからも、この書くという作業が私に与えてくれる「苦しみ」と「喜び」の間で生きていきたいと感じさせてくれる夜だった
すると、今度はスポーツライターのサイトから、「独立リーグを開始する準備が出来ました」というメールが入った。
取材の仕事と体験レポートの納期も目の前だった
そんな時、ライター仲間から、仕事を手伝って欲しいという連絡が入る
家の事情で納期が間に合わないのだという。
私はふたつ返事で受けることにして、他の仲間に声をかけたりする取りまとめ役をすることになった
始めての「プロ」の仕事は、緊張と不安が一杯だった
でも、突然お願いしたにもかかわらず、何人ものライター仲間が仕事を引き受けてくれたのだ
にわかに慌しくなり、私の時間が急速に廻り始めた気がした
夜更けにPCの前で原稿を書きながら、友達と電話で打ち合わせをし、他の仲間がいれてくれるメールに目をとして指示を出す
仕事で午前様になってしまった主人は、いつもなら、いかに仕事でも自分の前で私がPCをいじることをブツブツ言うのに、「適当なところで寝ろよ」と一言言うと、そのまま寝室に入って行った
真夜中の静寂の中に、私がキーボードを打ったり、資料をめくる音だけが響く
いつもならとっくに夢の中のはずなのに、私は全くと言って良いほど眠くはなかった
確かに、仕事として受けるライティングは、日記でエッセイを書くのとは訳が違う
いかに情報を詰め込むかという、作業と目前に迫った納期との戦いになり、なかなか進まない原稿に書くことの苦しさを見たような気がしたのだが
それでも、胸の奥の方では、トクトクと早い脈が打ち、どんなものであれ書ける喜びを確実に私に運んできてくれていた
仲間達からの原稿がメールで私の手元に届くたびに、同じ気持ちを抱いて作業をしてくれた仲間の声に、私は大きく頷きながら「お疲れ様でした」と返事を書いた
きっとこれからも、この書くという作業が私に与えてくれる「苦しみ」と「喜び」の間で生きていきたいと感じさせてくれる夜だった
2003 03/03 01:23
Category : 日記
研修に参加して、実際に取材をするというシュミレーション体験をした。
3人一組になり、話をする人・ライター・テープ起こし用のメモをとる人の役をそれぞれが交代で行うのだ。
私が組んだ人達は、私以外は皆テープ起こしメイトの方々だったので、先ずは私がライター役で取材をすることになった。
とにかく、初めてお目にかかった方々なので、お名前を伺うところからはじめたのだが…
なんだろう、軽く打ち合わせをして、シュミレーションをはじめようと思ったら。もうワクワクして仕方がない。
自分がライターとして、何を聞き出そうか?と言うことが、次から次へと頭の中に沸いてくる。
最初に導入部分として、この話を聞いて、それから本題に行く前の、きっかけを聞いて…。と相手の話をメモしながら、自分の頭の中に浮かんで来たシナリオを進めていく。それと同時に、今メモした相手の話が、なんとなく記事の形で頭に浮かんでくるのだ!
そうすると、出来あがりのイメージにするには、今手持ちの情報で何が足りないか?が見えてきて、それが、次の質問になって、私の口から出ていく。
私のライター役が終わり、今度は、テープ起こしの役になる。
今度は、ライターさんと話し手のやり取りを、テープを起こす際のヒントにするために、手際よく記録していく。ライターの時と同じように、メモをしているつもりなのだが。
いまいち要領を得ないせいか、ライター役の時には、殆ど手元も見ずに取れていたはずのメモが、全然取れない。頭が働いていないというか…。
テープ起こしという仕事は、とても地道な仕事だけど、キーボードを叩くことが好きな私にとっては、あまり苦になる仕事ではなく、私にとっては、むしろ面白いと思える仕事だ。
それでも、やはり、「自分はライターだ」「これから記事を書こう」と思って臨むのとは、胸のトキメキが違うことに改めて気付かされた気がした。
だからと言って、テープ起こしの仕事に魅力を感じていないわけではない。
例え、私の意志が入った言葉であろうとなかろうと、私は「言葉」に触れていたいのだと思う。
だからこそ、テープ起こしにも魅力を感じるのだと思う。
ただ、やっぱり、それ以上に「ライター」という「自分が書く」ということによりいっそう魅力を感じるのだ。
やっぱり私は、書くことが好きなのだ!
今まで、漠然と「在宅で仕事ができれば」と思っていたところがあり、入力でも、テープ起こしでも、ライティングでも何でもござれ!と思っていたのだ。
しかし、今回の研修に参加して、はっきりと「私は書きたい」人なのだ。ということに気がつくことができたことは、私の一番の収穫だったかもしれないと思う。
3人一組になり、話をする人・ライター・テープ起こし用のメモをとる人の役をそれぞれが交代で行うのだ。
私が組んだ人達は、私以外は皆テープ起こしメイトの方々だったので、先ずは私がライター役で取材をすることになった。
とにかく、初めてお目にかかった方々なので、お名前を伺うところからはじめたのだが…
なんだろう、軽く打ち合わせをして、シュミレーションをはじめようと思ったら。もうワクワクして仕方がない。
自分がライターとして、何を聞き出そうか?と言うことが、次から次へと頭の中に沸いてくる。
最初に導入部分として、この話を聞いて、それから本題に行く前の、きっかけを聞いて…。と相手の話をメモしながら、自分の頭の中に浮かんで来たシナリオを進めていく。それと同時に、今メモした相手の話が、なんとなく記事の形で頭に浮かんでくるのだ!
そうすると、出来あがりのイメージにするには、今手持ちの情報で何が足りないか?が見えてきて、それが、次の質問になって、私の口から出ていく。
私のライター役が終わり、今度は、テープ起こしの役になる。
今度は、ライターさんと話し手のやり取りを、テープを起こす際のヒントにするために、手際よく記録していく。ライターの時と同じように、メモをしているつもりなのだが。
いまいち要領を得ないせいか、ライター役の時には、殆ど手元も見ずに取れていたはずのメモが、全然取れない。頭が働いていないというか…。
テープ起こしという仕事は、とても地道な仕事だけど、キーボードを叩くことが好きな私にとっては、あまり苦になる仕事ではなく、私にとっては、むしろ面白いと思える仕事だ。
それでも、やはり、「自分はライターだ」「これから記事を書こう」と思って臨むのとは、胸のトキメキが違うことに改めて気付かされた気がした。
だからと言って、テープ起こしの仕事に魅力を感じていないわけではない。
例え、私の意志が入った言葉であろうとなかろうと、私は「言葉」に触れていたいのだと思う。
だからこそ、テープ起こしにも魅力を感じるのだと思う。
ただ、やっぱり、それ以上に「ライター」という「自分が書く」ということによりいっそう魅力を感じるのだ。
やっぱり私は、書くことが好きなのだ!
今まで、漠然と「在宅で仕事ができれば」と思っていたところがあり、入力でも、テープ起こしでも、ライティングでも何でもござれ!と思っていたのだ。
しかし、今回の研修に参加して、はっきりと「私は書きたい」人なのだ。ということに気がつくことができたことは、私の一番の収穫だったかもしれないと思う。
2003 03/03 00:08
Category : 日記
今日は、私が所属しているSOHOのMLの研修会があり、参加して来た。
まだまだ掛けだし(いや〜、歩き出してもいないかな?)SOHOの私にとっては、雲の上のような存在の、バリバリに仕事をしている先輩方の話を聞き
実際に、テープ起こしやインタビューの実演を見てから、自分たちでも実際に体験して来た。
そこで学んだことは、「自分に自信を持つ」ということだと思う
自分に自信が持てるように、きちんとスキルや知識を磨いていく努力を惜しまず、その上で自分を自信を持って売りこみ、安売りしないことが必要なのだと思う。
自分に自信を持つということは、とても大変なことだけど、でも、今回のことで自分の回りにいる「同じ目的を持った同志」の存在を強く認識でき、その仲間達と歩んで行くことで、少しづつ前に進んで行くことで、自信をつけて行けると確信した。
ネットワークの大事さ。
それは、お金で買えない宝物であると思う。
帰って来てメールをチェックしたら、またメルマガに記事の採用が決まったという連絡が入っていた。
今ハ、自分の信じる道を、同じ夢を持った仲間達と、しっかり前を向いて歩んで行きたい
まだまだ掛けだし(いや〜、歩き出してもいないかな?)SOHOの私にとっては、雲の上のような存在の、バリバリに仕事をしている先輩方の話を聞き
実際に、テープ起こしやインタビューの実演を見てから、自分たちでも実際に体験して来た。
そこで学んだことは、「自分に自信を持つ」ということだと思う
自分に自信が持てるように、きちんとスキルや知識を磨いていく努力を惜しまず、その上で自分を自信を持って売りこみ、安売りしないことが必要なのだと思う。
自分に自信を持つということは、とても大変なことだけど、でも、今回のことで自分の回りにいる「同じ目的を持った同志」の存在を強く認識でき、その仲間達と歩んで行くことで、少しづつ前に進んで行くことで、自信をつけて行けると確信した。
ネットワークの大事さ。
それは、お金で買えない宝物であると思う。
帰って来てメールをチェックしたら、またメルマガに記事の採用が決まったという連絡が入っていた。
今ハ、自分の信じる道を、同じ夢を持った仲間達と、しっかり前を向いて歩んで行きたい