子どもの空間:/4 強い母になる 「産んであげられなかった」
毎朝5時45分、携帯のアラームが鳴る。ダウンジャケットを羽織り、東京都大田区の街を自転車で飛ばす。エプロンを着けて厨房(ちゅうぼう)に入り、総菜を作ってパックに詰める。弁当を車に積むと、オフィス街へ。1日32個を売り、翌日の仕込みまでが給料分の仕事。週末の夜は居酒屋になる店を手伝い、夕飯を食べさせてもらう。

 高校をやめ、少女(17)が店に来たのは昨年5月。少ししてママ(57)に1年前のことを打ち明けた。「産んでいればアタシが育ててあげたのに」。ママは泣いた。

 隣の分娩(ぶんべん)室からは元気な産声が聞こえていた。あおむけの胸に看護師が胎児を乗せてくれた。男の子。もう立派な赤ちゃんに見えた。自分に似た大きな目。その体はどんどん冷たくなっていく。

 都立高校に入学して2度目の春だった。同い年の彼とはその冬、友達を通じて知り合った。彼は「子どもができたら育てる」と避妊を嫌がった。病院に行った時は5カ月目。両家の話し合いは、親同士の怒鳴り合いになった。結局、彼は親の言いなり。未練はなかった。

 中絶した後、バイト中も若い妊婦や親子連れに目が行く。「私も育てられたんじゃないか」。産んであげられなかった子に自分の中で「流星」と名をつけた。

 友達に打ち明ければきっと幻滅される。抱え込むには重すぎる。半年ほどたった05年10月、携帯サイトを作り、見知らぬ誰かに体験を吐き出し続けた。

 アクセスは5000件を超えた。同じ経験をした少女たちが掲示板に次々と書き込んでくる。同い年の子から「どうしたらいい?」と相談が来た。「親に話して、育てられるなら産んだ方がいい。もう1回考えてみて」と返事を出した。2カ月後。「産むことにしました」。絵文字のない丁寧な文面だった。

 ミニスカートにブーツで出会い系サイトにのめり込んでいた同学年の子は結婚して昨年、2人目を産んだ。外見は派手なままなのに、今は子どもの昼寝中しかメールをよこさない。「抱いてみる?」と乳飲み子を差し出された。もう首が据わっているので断れず、そっと腕を伸ばした。

 流星にもきっと、弟か妹ができる日が来る。

 ずっと「母」のイメージが持てなかった。

 1枚の写真がある。遊園地で「レレレのおじさん」のぬいぐるみと並んでいる。小学2年のある日、親せきに連れ出され、その夜から祖父母の家に預けられた。母が家を出たと知らされたのは、しばらくしてからだ。

 今はそばにママがいる。暇さえあれば厨房で料理を教えてくれる。卵料理と揚げ物はもう完ぺきだ。「これはカンがいい」と目を細めるママは、離婚して29歳で店を構え、3人の子を育て上げた。いつか自分も店を持ち、強い母になりたい。

 「行って来るから」。25日は月命日。弁当を売り終え、少女は横浜の寺へ向かう。「分かった。気をつけて」。ママの声が背中に聞こえる。【中本泰代】=つづく

 ◇支援は乏しく

 ドラマ「14才の母」のヒットで少女の出産に賛否が渦巻いた。厚生労働省の05年統計で、15~19歳女性1000人当たりの出生率は5.2人と、10年前の1.3倍。14歳以下の母の子も42人いた。中絶実施率も同様に増えている。行政が10代の母の仲間作りを促す動きもあるが、当事者への支援は乏しい。

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毎日新聞 2007年1月5日 東京朝刊