2009年05月の記事


「ヒカルイマイはすごかった」杉本清さん、思い出の東京優駿を語る
ヒカルイマイ(1971年)は逆に、どん尻から行って、直線では大外から前の馬(22頭)をごぼう抜き。ペースも速くなくて、あの時は「すごいなぁ」。それだけやったね。あんだけの追い込みは、いまだかつてなかったよ。黄色の帽子で(5)-(5)の馬券だったのは忘れもしない。5千円いくら(配当が)ついたから。

 (23歳7カ月で)最年少優勝を飾った田島良保ジョッキーがレース後、本来なら競馬博物館に飾るために持ち帰るムチを、スタンドに投げ入れてしまった。それほど興奮しとったんやろねえ。でも、この馬が本当に「すごい」と思うようになったのは、その後のこと。関西テレビで「ダービー馬を追いかける」という夏取材で、驚くことがいろいろわかったからね。

 生い立ちを(北海道に)探りに行って「この辺りでダービー馬が出たんだけど」と聞いても、誰も知らない。どこの牧場の馬かと思ったら、普通の農家の馬やというのがわかった。それで、そのおじいさんが「取材は絶対に受けつけない」って言うんだよ。でも、「一杯飲めや。飲んだら話してやる」と言われて、プロデューサーもカメラマンもダメ。アナウンサーなら飲めるということになって、その焼酎を飲んだとたんに(アルコール度が高く)天井が回った(笑)。それで、ようやく話してくれたんやけどね。

 母がサラ系のセイシュンという馬で、放牧地もなく厩舎(きゅうしゃ)はボロボロ。冬はすき間から降る雪を背負って寝ていたというぐらいで、肋骨(ろっこつ)が陥没したのもいつかわからない。ほったらかしだったから。さらに「人間が飲んで悪くないから」という理由で、牛乳を飲ませて育てたと言うの。セリでも売れず、馬を引き取る回収車が昼から来るというその当日の朝、なんと仲買人が現れて買い取っていった。それが、ダービー馬になるんだから、信じられないね。

 訓練していないし、何かを乗せたことはない。田島騎手も「カーブで曲がろうとしないし、初めて乗ったときは調教がメチャクチャ怖かった」と言ってたから。その田島はダービーで勝った後、「オレはダービーに乗ったんやない。ヒカルイマイに乗った」と名言を残したけど、その時はそこまで馬の特徴をつかんでいたんやろうね。

 今は18頭だけど、そのころは28頭で、見てても壮観だったね。頭数も多い分、個性的な馬も多かった。(ともに元名騎手だった)岡部幸雄さんや河内洋さん(現調教師)も「ダービーだけは28頭でやらないかん」と言ってるけど、それは同感だね。

 ■杉本清(すぎもと・きよし)1937年2月19日生まれ、奈良県出身。61年関西テレビ入社後、アナウンサーとして翌62年から競馬実況に携わり、数々の名せりふで歴史に残る名レースを語ってきた“競馬実況の神様”。97年に定年退職後も、フリーアナウンサー、タレントとして、テレビ、CM出演を含めて各方面で活躍している。
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