子どもを抱くべき時(2004/7/14オリーブニュース掲載)
産経新聞の生活改革欄に、毎週土曜日、作詞家であり小説家でもある阿久悠さん
が、「書く言う」というコラムを連載している。毎回、阿久悠さんが感じられた事に
対して、独自の観察眼と切り口でまとめているそのコラムは、共感する事も多く、私
は毎回楽しみにしている。特に思わず「さすが作詞家」と唸ってしまうのが、そのコ
ラムに毎回つけられるタイトルだ。

 7月3日に掲載されたコラムは特に秀悦だった。そのタイトルは「抱く時にだかず
に、独り立ちの時にだくから、子どもらは逃げる」だった。このタイトルほど明確
に、現代の親達の、子ども達への接し方の欠点を指摘している文章はないように私に
は思えた。

 産まれたばかりの赤ん坊は、動くものを見ると自然と顔の筋肉が収縮して、笑顔を
つくるという本能を持っているという話しを聞いたことがある。なぜそんな本能があ
るのかというと。産まれたばかりの乳児は、誰かの保護が無いと命を繋いで行くこと
ができないからだ。つまり、愛されるためにそのような本能を持って産まれて来るの
だという。昔祖母が、「絶対の安心感を持っていることができたお母さんのお腹の中
から、赤ちゃんは、たった独りで暗い道を通って産まれてくる。そして、目も見えず
耳も良く聞こえず、自分が何処にいるのかも分からなくて、すごく不安なので泣くん
だそうよ」とよく言っていた。

 確かにある程度の年令までの子どもは、親の顔が見えただけでもニコッと笑ってく
れる。それは、ただ本能から来るものだけではなく、親に絶対の信頼を置き、親の顔
が見える事で安心するからだろう。そう、はじめから愛されたくないと思って産まれ
てくる子どもはいないのだ。

 しかし、その子どもの不安とは裏腹に、「抱き癖がつくと困る」「面倒くさい」な
どの理由から、抱くべき時期に抱こうとしなかったり、抱くことをためらったりして
しまう親がいるのだ。ただ、安心感を求めて、愛されているのだという実感を求めて
泣く子どもを抱かなければ、当然親に対して絶対の信頼など、子どもの中にうまれる
わけもない。そうして、自分が愛されているのかどうかも確信できないまま、子ども
達は抱かれるべき時期を過ごしてしまうのだ。

 子どもを育てたことのある人ならわかるかもしれないが、寝てばかりいる「赤ちゃ
ん」と呼べる時期は、本当に短い。赤ちゃんは、すぐに親の手の中から這い出て、自
分の足で歩こうとするのだ。その時になって、はじめて親は自分があまり子どもを抱
いてやっていないことに気がつくのだろう。自立していこうとする子どもに対して、
未練がましく抱きしめようとする。しかし、子どもの側は、自分が抱いて欲しいと要
求してきた時期に抱かれていないので、いまさらからみついてくる親の手をしがらみ
のように感じて、逃げるのだ。

 コラムの中で、阿久悠さんは「家庭とか家族というのは、ハコ物のことを言うので
はない。ハコの中の時間をどのように共有したり、個人のものに分散して使うのか、
マネージメントが存在する事を、家庭とか家族とか言うのである。それぞれが自分勝
手に出たり入ったりしている状態は、家と人間の間に共通の認識のない、ただのハコ
なのである。」と書いている。まさしく、今の家庭や家族の多くは、この「ハコ」の
状態になっているだろうと、私も思う。

 さらに阿久悠さんはこう続けている。「日が暮れて、夜が更けて、子どもが家を出
なかったのは、真暗闇で社会が動きを停めてしまい、何もする事がなかっただけでは
ないのである。親も子もともどもに、社会の中での迷い子でないことを確認するため
に、絶対必要な時間であったのである。家族とは、迷い子の恐ろしさを教え、迷い子
にならない唯一の場として存在したのである」と。

 血が繋がっていることや一緒に暮らしているから家族なのではない。同じ時間を共
有し、お互いに支えたり支えられたりしながら培って来た共通の認識を持っている人
達が家族なのだと思う。今の若い子達が迷い子なのだとしたら、その子の親も迷い子
なのかもしれない。もう一度、家庭や家族というもののあり方を、真剣に見直すべき
時が来ているのだと思う