2004年07月の記事
2004 07/28 06:52
Category : 日記
近鉄バッファローズとオリックスブルーウェーブの合併問題に端を発して、日本の
野球界がゆれていることは皆さんもご存知だと思う。合併をせずにできるだけ自分た
ちが愛する球団を存続して欲しい!と願う、野球ファンや、選手達の声が高まってい
るにもかかわらず、合併・1リーグ制への移行を押し通そうとするオーナー達。その
中でも、特に、巨人の渡辺オーナーの発言は、あまりにも高圧的なものがあり、
ニュースなどにも取り上げられることも多い。
そして先日、球団の存続を求める選手の代表である、労組日本プロ野球選手会の古
田会長が、「オーナーたちと話をしたいという気持ちはある。その方が(議論が)開
かれた感じがしていいのではないか」と話したことを受けて、渡辺オーナーは「無礼
なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が。立派な選手もいるけ
ど。オーナーと対等に話をする協約上の根拠はひとつもない」と発言した。
その報道を見て、小学6年の息子が「あのひと(渡辺オーナー)偉い人なの?」と
怪訝そうな顔をして聞いてきた。「巨人のオーナーの人だから、偉い人といえば偉い
かな」と私が答えた。すると「なんで巨人だけの、ただ1チームオーナーっていうだ
けなのに、全部に対して偉そうなことを言うの?」と聞いてきた。息子にしてみれ
ば、それは不思議で仕方が無いことだろう。
我が家の息子は、最近野球にはまっている。我が家の場合、夫が野球ファンではな
いために、最近まであまり野球中継を見たことが無かった。そのために、息子はあま
り野球に接する機会が無かったのだ。しかし小学校の高学年になってから、友達の影
響で松井選手のファンになり、巨人ファンになった。つまり、息子は遅咲きの野球少
年だった。
毎日、日が暮れるまで友達と野球をしてドロドロになって帰ってくる。しかし、町
内会で主催する野球チームには入ってはいない。それは、野球チームには、幼稚園頃
から野球をやってきた子が多くいまさら入りづらいことと、野球チームの運営がチー
ム員のお父さん達のボランティアによって成り立っていることにあった。チーム員の
子のお父さんが、コーチなどを買って出て練習や試合の手伝いをしているのだ。しか
し、我が家では夫は野球が得意ではないので、それを頼むのは難しいものがある。仕
方なく息子は、同じような理由から野球チームに入れない子達と一緒にチームを組ん
だ。
下町に住んでいる我が家の周りには、野球ができるほど広い公園は少ない。しか
も、すこし広い公園では、安全のために球技が禁止されているところばかりだ。その
ために、息子達は、練習場所を確保するのにもかなり苦労をしたらしい。地元の企業
が所有しているグラウンドに、自分たちで貸してもらうように依頼しに行き、ようや
く練習できるようにしたという。監督やコーチがいるわけではないので、練習メ
ニューも、試合でのチームオーダーもみな、すべて自分達で話し合って決めているら
しい。
息子は、将来プロ野球選手になろうと夢を見るほど野球はうまいわけではないが、
「野球を好きだと」という気持ちは、野球選手を目指している子達には負けないくら
いのものを持っているだろう。そして、野球というスポーツの面白さやプレーの難し
さを知ったからこそ、プロ野球選手のすごさを実感して憧れを持ち、その選手達が所
属するチームも好きになったのだ。息子とは逆に、愛着を持って応援してきたチーム
があり、そのチームの選手達の活躍を楽しみにしている人もたくさんいらっしゃると
思うが、どちらの場合でも「野球が好きだ」という気持は同じだと思う。
しかし、今回の渡辺オーナーの発言には、野球が好きだという気持ちが感じられな
いと思う。確かに球団を経営していくには、「野球が好きだ」という気持ちだけでは
できないのかもしれない。息子にしてみれば、「チームのオーナーになるくらいの人
だから、ものすごく野球が好きで愛している人なのだ」と思っていたのに、「たかが
選手」などという発言が出てくることが信じられなかったのだろう。「あんな人が
オーナーだったなんて、なんかがっかりだ」と息子は言った。そしてしばらく考えて
から。「俺、巨人ファンをやめるよ。でも今までどおり、選手の応援はするし野球も
やるけどね」とそういった。
日本のプロ野球界を支えているファンの多くは、息子のように純粋に野球やチーム
が好きな人達ではないだろうか。そして、今プロ野球選手になっている人達も、そん
なファンの中から産まれてきたのだと思う。しかし、野球を愛する気持ちも、野球を
愛してくれるファンを大事に思う気持ちも持ち合わせないような発言を、平然として
しまうオーナーの姿勢がファンに伝わり、結果的に赤字ばかりの日本のプロ野球界の
現状を作り出してしまったのではないだろうか?
野球ファンが望んでいるのは、グランドでイキイキとそしてエキサイティングなプ
レーをする、選手たちの姿だと思う。是非オーナーの方達には、そんなプレーができ
る場を、選手達に提供できるようにためにも、ファンが球界に望んでいることに対し
て耳を傾けて欲しいと思う。
野球界がゆれていることは皆さんもご存知だと思う。合併をせずにできるだけ自分た
ちが愛する球団を存続して欲しい!と願う、野球ファンや、選手達の声が高まってい
るにもかかわらず、合併・1リーグ制への移行を押し通そうとするオーナー達。その
中でも、特に、巨人の渡辺オーナーの発言は、あまりにも高圧的なものがあり、
ニュースなどにも取り上げられることも多い。
そして先日、球団の存続を求める選手の代表である、労組日本プロ野球選手会の古
田会長が、「オーナーたちと話をしたいという気持ちはある。その方が(議論が)開
かれた感じがしていいのではないか」と話したことを受けて、渡辺オーナーは「無礼
なことを言うな。分をわきまえないといかん。たかが選手が。立派な選手もいるけ
ど。オーナーと対等に話をする協約上の根拠はひとつもない」と発言した。
その報道を見て、小学6年の息子が「あのひと(渡辺オーナー)偉い人なの?」と
怪訝そうな顔をして聞いてきた。「巨人のオーナーの人だから、偉い人といえば偉い
かな」と私が答えた。すると「なんで巨人だけの、ただ1チームオーナーっていうだ
けなのに、全部に対して偉そうなことを言うの?」と聞いてきた。息子にしてみれ
ば、それは不思議で仕方が無いことだろう。
我が家の息子は、最近野球にはまっている。我が家の場合、夫が野球ファンではな
いために、最近まであまり野球中継を見たことが無かった。そのために、息子はあま
り野球に接する機会が無かったのだ。しかし小学校の高学年になってから、友達の影
響で松井選手のファンになり、巨人ファンになった。つまり、息子は遅咲きの野球少
年だった。
毎日、日が暮れるまで友達と野球をしてドロドロになって帰ってくる。しかし、町
内会で主催する野球チームには入ってはいない。それは、野球チームには、幼稚園頃
から野球をやってきた子が多くいまさら入りづらいことと、野球チームの運営がチー
ム員のお父さん達のボランティアによって成り立っていることにあった。チーム員の
子のお父さんが、コーチなどを買って出て練習や試合の手伝いをしているのだ。しか
し、我が家では夫は野球が得意ではないので、それを頼むのは難しいものがある。仕
方なく息子は、同じような理由から野球チームに入れない子達と一緒にチームを組ん
だ。
下町に住んでいる我が家の周りには、野球ができるほど広い公園は少ない。しか
も、すこし広い公園では、安全のために球技が禁止されているところばかりだ。その
ために、息子達は、練習場所を確保するのにもかなり苦労をしたらしい。地元の企業
が所有しているグラウンドに、自分たちで貸してもらうように依頼しに行き、ようや
く練習できるようにしたという。監督やコーチがいるわけではないので、練習メ
ニューも、試合でのチームオーダーもみな、すべて自分達で話し合って決めているら
しい。
息子は、将来プロ野球選手になろうと夢を見るほど野球はうまいわけではないが、
「野球を好きだと」という気持ちは、野球選手を目指している子達には負けないくら
いのものを持っているだろう。そして、野球というスポーツの面白さやプレーの難し
さを知ったからこそ、プロ野球選手のすごさを実感して憧れを持ち、その選手達が所
属するチームも好きになったのだ。息子とは逆に、愛着を持って応援してきたチーム
があり、そのチームの選手達の活躍を楽しみにしている人もたくさんいらっしゃると
思うが、どちらの場合でも「野球が好きだ」という気持は同じだと思う。
しかし、今回の渡辺オーナーの発言には、野球が好きだという気持ちが感じられな
いと思う。確かに球団を経営していくには、「野球が好きだ」という気持ちだけでは
できないのかもしれない。息子にしてみれば、「チームのオーナーになるくらいの人
だから、ものすごく野球が好きで愛している人なのだ」と思っていたのに、「たかが
選手」などという発言が出てくることが信じられなかったのだろう。「あんな人が
オーナーだったなんて、なんかがっかりだ」と息子は言った。そしてしばらく考えて
から。「俺、巨人ファンをやめるよ。でも今までどおり、選手の応援はするし野球も
やるけどね」とそういった。
日本のプロ野球界を支えているファンの多くは、息子のように純粋に野球やチーム
が好きな人達ではないだろうか。そして、今プロ野球選手になっている人達も、そん
なファンの中から産まれてきたのだと思う。しかし、野球を愛する気持ちも、野球を
愛してくれるファンを大事に思う気持ちも持ち合わせないような発言を、平然として
しまうオーナーの姿勢がファンに伝わり、結果的に赤字ばかりの日本のプロ野球界の
現状を作り出してしまったのではないだろうか?
野球ファンが望んでいるのは、グランドでイキイキとそしてエキサイティングなプ
レーをする、選手たちの姿だと思う。是非オーナーの方達には、そんなプレーができ
る場を、選手達に提供できるようにためにも、ファンが球界に望んでいることに対し
て耳を傾けて欲しいと思う。
2004 07/21 15:04
Category : 日記
「着衣水泳」という言葉は、耳慣れないとお感じの方も多いかもしれないが、読ん
で字のごとく「着衣」のまま泳ぐ事だという。
実は先日、小学校6年生の息子が学校から一通のプリントを持って帰って来た。そ
の標題に書いてあったのが「着衣泳の取り組みのお知らせ」だった。今年のように天
候に恵まれて暑い日が続くと、子ども達はどうしても涼を求めて水辺に遊びに出かけ
ることが多くなる。そこで学校では水の事故を防ぐ事を狙いとして、夏休みを目前に
控えた1学期最後のプールの授業で着衣水泳に取り組む事にしたというお知らせだっ
た。
大人の方でも、着衣のまま水の中に入った事のある人は少ないかもしれない。着衣
のまま水に入ると、想像するよりも水を含んだ着衣が重く体の自由を奪われるもの
で、少し泳げる人でも困惑する場合がある。しかも、それが本人の意思とは反した状
態だったとしたら、その状況は想像がつく。そこで、水の事故から自分自身を守る事
を意識付け、もしそのような事が時でも慌てないで済むように、一度授業で着衣のま
ま泳ぐということを子ども達に体験させようということで、今年初めて着衣泳に取り
組むようにしたらしい。プリントには、学校のプールには塩素で消毒が施されてい
る。そのため、着衣泳に使用した衣服が脱色してしまう恐れもあるので、白色系の衣
服と予備の靴を持たせるようにという注意書きがあった。
違う地域に住む、小学生の子どもを持つ数人の友人に聞いてみたところ、着衣水泳
を実施している地域もあるようだが、殆どのところでは初めて耳にする言葉だと言わ
れた。実施していると答えてくれた友人の話では、水の中では洋服を着ていることよ
りも靴を履いていることの方が動きが制限されるらしい。近頃の子ども達は普段から
スニーカーを履いていることが多い。このスニーカーが水を吸ってしまうと、想像以
上に重く感じられ、体の自由がききづらくなるのだという。
私の聞いた限りでは、着衣水泳を実施している学校は少ないようだが、夏休み前に
一度着衣水泳を、子ども達に体験させておくべきなではないかと思う。プールなど公
共の場所では、着衣のままで水に入ることは許可が下りないだろうと思われるが。例
えば、自宅のお風呂や川や海に遊びに行った時などに、保護者が付き添う形で着衣の
まま水に入らせることで、子ども達に実感してもらうことはできると思う。冷夏に見
舞われた昨年とは違い、今年の夏は暑くなりそうだ。着衣水泳を体験することで、子
ども達に水の事故の恐さに対して少しでも認識を持ってもらい、この夏休みの水の事
故が少しでも少なくなる事を願っている。
で字のごとく「着衣」のまま泳ぐ事だという。
実は先日、小学校6年生の息子が学校から一通のプリントを持って帰って来た。そ
の標題に書いてあったのが「着衣泳の取り組みのお知らせ」だった。今年のように天
候に恵まれて暑い日が続くと、子ども達はどうしても涼を求めて水辺に遊びに出かけ
ることが多くなる。そこで学校では水の事故を防ぐ事を狙いとして、夏休みを目前に
控えた1学期最後のプールの授業で着衣水泳に取り組む事にしたというお知らせだっ
た。
大人の方でも、着衣のまま水の中に入った事のある人は少ないかもしれない。着衣
のまま水に入ると、想像するよりも水を含んだ着衣が重く体の自由を奪われるもの
で、少し泳げる人でも困惑する場合がある。しかも、それが本人の意思とは反した状
態だったとしたら、その状況は想像がつく。そこで、水の事故から自分自身を守る事
を意識付け、もしそのような事が時でも慌てないで済むように、一度授業で着衣のま
ま泳ぐということを子ども達に体験させようということで、今年初めて着衣泳に取り
組むようにしたらしい。プリントには、学校のプールには塩素で消毒が施されてい
る。そのため、着衣泳に使用した衣服が脱色してしまう恐れもあるので、白色系の衣
服と予備の靴を持たせるようにという注意書きがあった。
違う地域に住む、小学生の子どもを持つ数人の友人に聞いてみたところ、着衣水泳
を実施している地域もあるようだが、殆どのところでは初めて耳にする言葉だと言わ
れた。実施していると答えてくれた友人の話では、水の中では洋服を着ていることよ
りも靴を履いていることの方が動きが制限されるらしい。近頃の子ども達は普段から
スニーカーを履いていることが多い。このスニーカーが水を吸ってしまうと、想像以
上に重く感じられ、体の自由がききづらくなるのだという。
私の聞いた限りでは、着衣水泳を実施している学校は少ないようだが、夏休み前に
一度着衣水泳を、子ども達に体験させておくべきなではないかと思う。プールなど公
共の場所では、着衣のままで水に入ることは許可が下りないだろうと思われるが。例
えば、自宅のお風呂や川や海に遊びに行った時などに、保護者が付き添う形で着衣の
まま水に入らせることで、子ども達に実感してもらうことはできると思う。冷夏に見
舞われた昨年とは違い、今年の夏は暑くなりそうだ。着衣水泳を体験することで、子
ども達に水の事故の恐さに対して少しでも認識を持ってもらい、この夏休みの水の事
故が少しでも少なくなる事を願っている。
2004 07/14 09:53
Category : 日記
産経新聞の生活改革欄に、毎週土曜日、作詞家であり小説家でもある阿久悠さん
が、「書く言う」というコラムを連載している。毎回、阿久悠さんが感じられた事に
対して、独自の観察眼と切り口でまとめているそのコラムは、共感する事も多く、私
は毎回楽しみにしている。特に思わず「さすが作詞家」と唸ってしまうのが、そのコ
ラムに毎回つけられるタイトルだ。
7月3日に掲載されたコラムは特に秀悦だった。そのタイトルは「抱く時にだかず
に、独り立ちの時にだくから、子どもらは逃げる」だった。このタイトルほど明確
に、現代の親達の、子ども達への接し方の欠点を指摘している文章はないように私に
は思えた。
産まれたばかりの赤ん坊は、動くものを見ると自然と顔の筋肉が収縮して、笑顔を
つくるという本能を持っているという話しを聞いたことがある。なぜそんな本能があ
るのかというと。産まれたばかりの乳児は、誰かの保護が無いと命を繋いで行くこと
ができないからだ。つまり、愛されるためにそのような本能を持って産まれて来るの
だという。昔祖母が、「絶対の安心感を持っていることができたお母さんのお腹の中
から、赤ちゃんは、たった独りで暗い道を通って産まれてくる。そして、目も見えず
耳も良く聞こえず、自分が何処にいるのかも分からなくて、すごく不安なので泣くん
だそうよ」とよく言っていた。
確かにある程度の年令までの子どもは、親の顔が見えただけでもニコッと笑ってく
れる。それは、ただ本能から来るものだけではなく、親に絶対の信頼を置き、親の顔
が見える事で安心するからだろう。そう、はじめから愛されたくないと思って産まれ
てくる子どもはいないのだ。
しかし、その子どもの不安とは裏腹に、「抱き癖がつくと困る」「面倒くさい」な
どの理由から、抱くべき時期に抱こうとしなかったり、抱くことをためらったりして
しまう親がいるのだ。ただ、安心感を求めて、愛されているのだという実感を求めて
泣く子どもを抱かなければ、当然親に対して絶対の信頼など、子どもの中にうまれる
わけもない。そうして、自分が愛されているのかどうかも確信できないまま、子ども
達は抱かれるべき時期を過ごしてしまうのだ。
子どもを育てたことのある人ならわかるかもしれないが、寝てばかりいる「赤ちゃ
ん」と呼べる時期は、本当に短い。赤ちゃんは、すぐに親の手の中から這い出て、自
分の足で歩こうとするのだ。その時になって、はじめて親は自分があまり子どもを抱
いてやっていないことに気がつくのだろう。自立していこうとする子どもに対して、
未練がましく抱きしめようとする。しかし、子どもの側は、自分が抱いて欲しいと要
求してきた時期に抱かれていないので、いまさらからみついてくる親の手をしがらみ
のように感じて、逃げるのだ。
コラムの中で、阿久悠さんは「家庭とか家族というのは、ハコ物のことを言うので
はない。ハコの中の時間をどのように共有したり、個人のものに分散して使うのか、
マネージメントが存在する事を、家庭とか家族とか言うのである。それぞれが自分勝
手に出たり入ったりしている状態は、家と人間の間に共通の認識のない、ただのハコ
なのである。」と書いている。まさしく、今の家庭や家族の多くは、この「ハコ」の
状態になっているだろうと、私も思う。
さらに阿久悠さんはこう続けている。「日が暮れて、夜が更けて、子どもが家を出
なかったのは、真暗闇で社会が動きを停めてしまい、何もする事がなかっただけでは
ないのである。親も子もともどもに、社会の中での迷い子でないことを確認するため
に、絶対必要な時間であったのである。家族とは、迷い子の恐ろしさを教え、迷い子
にならない唯一の場として存在したのである」と。
血が繋がっていることや一緒に暮らしているから家族なのではない。同じ時間を共
有し、お互いに支えたり支えられたりしながら培って来た共通の認識を持っている人
達が家族なのだと思う。今の若い子達が迷い子なのだとしたら、その子の親も迷い子
なのかもしれない。もう一度、家庭や家族というもののあり方を、真剣に見直すべき
時が来ているのだと思う
が、「書く言う」というコラムを連載している。毎回、阿久悠さんが感じられた事に
対して、独自の観察眼と切り口でまとめているそのコラムは、共感する事も多く、私
は毎回楽しみにしている。特に思わず「さすが作詞家」と唸ってしまうのが、そのコ
ラムに毎回つけられるタイトルだ。
7月3日に掲載されたコラムは特に秀悦だった。そのタイトルは「抱く時にだかず
に、独り立ちの時にだくから、子どもらは逃げる」だった。このタイトルほど明確
に、現代の親達の、子ども達への接し方の欠点を指摘している文章はないように私に
は思えた。
産まれたばかりの赤ん坊は、動くものを見ると自然と顔の筋肉が収縮して、笑顔を
つくるという本能を持っているという話しを聞いたことがある。なぜそんな本能があ
るのかというと。産まれたばかりの乳児は、誰かの保護が無いと命を繋いで行くこと
ができないからだ。つまり、愛されるためにそのような本能を持って産まれて来るの
だという。昔祖母が、「絶対の安心感を持っていることができたお母さんのお腹の中
から、赤ちゃんは、たった独りで暗い道を通って産まれてくる。そして、目も見えず
耳も良く聞こえず、自分が何処にいるのかも分からなくて、すごく不安なので泣くん
だそうよ」とよく言っていた。
確かにある程度の年令までの子どもは、親の顔が見えただけでもニコッと笑ってく
れる。それは、ただ本能から来るものだけではなく、親に絶対の信頼を置き、親の顔
が見える事で安心するからだろう。そう、はじめから愛されたくないと思って産まれ
てくる子どもはいないのだ。
しかし、その子どもの不安とは裏腹に、「抱き癖がつくと困る」「面倒くさい」な
どの理由から、抱くべき時期に抱こうとしなかったり、抱くことをためらったりして
しまう親がいるのだ。ただ、安心感を求めて、愛されているのだという実感を求めて
泣く子どもを抱かなければ、当然親に対して絶対の信頼など、子どもの中にうまれる
わけもない。そうして、自分が愛されているのかどうかも確信できないまま、子ども
達は抱かれるべき時期を過ごしてしまうのだ。
子どもを育てたことのある人ならわかるかもしれないが、寝てばかりいる「赤ちゃ
ん」と呼べる時期は、本当に短い。赤ちゃんは、すぐに親の手の中から這い出て、自
分の足で歩こうとするのだ。その時になって、はじめて親は自分があまり子どもを抱
いてやっていないことに気がつくのだろう。自立していこうとする子どもに対して、
未練がましく抱きしめようとする。しかし、子どもの側は、自分が抱いて欲しいと要
求してきた時期に抱かれていないので、いまさらからみついてくる親の手をしがらみ
のように感じて、逃げるのだ。
コラムの中で、阿久悠さんは「家庭とか家族というのは、ハコ物のことを言うので
はない。ハコの中の時間をどのように共有したり、個人のものに分散して使うのか、
マネージメントが存在する事を、家庭とか家族とか言うのである。それぞれが自分勝
手に出たり入ったりしている状態は、家と人間の間に共通の認識のない、ただのハコ
なのである。」と書いている。まさしく、今の家庭や家族の多くは、この「ハコ」の
状態になっているだろうと、私も思う。
さらに阿久悠さんはこう続けている。「日が暮れて、夜が更けて、子どもが家を出
なかったのは、真暗闇で社会が動きを停めてしまい、何もする事がなかっただけでは
ないのである。親も子もともどもに、社会の中での迷い子でないことを確認するため
に、絶対必要な時間であったのである。家族とは、迷い子の恐ろしさを教え、迷い子
にならない唯一の場として存在したのである」と。
血が繋がっていることや一緒に暮らしているから家族なのではない。同じ時間を共
有し、お互いに支えたり支えられたりしながら培って来た共通の認識を持っている人
達が家族なのだと思う。今の若い子達が迷い子なのだとしたら、その子の親も迷い子
なのかもしれない。もう一度、家庭や家族というもののあり方を、真剣に見直すべき
時が来ているのだと思う
2004 07/14 09:51
Category : 日記
先日夕飯の買い物に行った時、八百屋さんの店頭に西瓜やトマトが色
鮮やかに並んでいるのを見て、「今年も半分が過ぎてしまったんだな〜」
と実感した。するとその時、果物の甘い香りと一緒に、懐かしい香りが
漂っている事に気がついた。それは、みょうがだった。
私は、みょうがの香りをかぐと、蚊取り線香を思い出す。私の母は、
みょうがが好物だった。私が小さい頃に住んでいた家には、猫の額ほど
の狭い庭があった。そしてその庭の隅っこの方に、みょうがが植えてあ
ったのだ。しかしその場所は、生垣のすぐ横で植木の間を通りぬけない
と行かれなかった。つまり大人ではなかなか入ることができない場所だっ
たのだ。
毎年、本格的な夏が始まる少し前のこの時期になると、学校から帰宅す
る私を、母はてぐすねを引いて待っていて、遊びに行くまえにみょうが
を取りにいかせるのだった。しかし、みょうがは庭の隅っこ。そこは、
薮蚊の巣のような所なのだ。30年も前のことなので今のように虫除けス
プレーはなく、母は私に蚊取り線香を持たせてそのヤブへ送り出した。
しかし、百戦錬磨の薮蚊に細くたなびく蚊取り線香の煙などで打ち勝つ
事ができるはずもない。私は蚊取り線香の煙の中を平然とつきぬけて私
をめがけて飛んでくる薮蚊に体じゅうを刺され、そこらじゅうをボリボ
リとかき、早く遊びに行きたいと思いながら、母に持たされたカゴが一
杯になるまで、一生懸命みょうがを取った。
時々、母が私に声をかける。振り向くと、植木越しに縁側に立つ母の姿
が見えた。私が「今年もたくさん取れたよ」と、みょうがで一杯になっ
たカゴを見せると。ゆらゆらとくゆる蚊取り線香の煙の向こうに、母の
笑顔があった。もしかしたら、私はあの母の笑顔が見たくて、みょうが
を取っていたのかもしれない。そして、蚊取り線香の煙は、私に夏を連
想させた。みょうがは私に、夏がもうすぐそこまで来ていることも教え
てくれていた。
八百屋さんの店頭でみょうがを見つけた私の脳裏には、そんな子どもの
頃思い出がよぎり、なんとなく蚊に刺されたようなかゆみを感じ、腕を
ポリポリと掻いている私がいた。今晩は、母が好きだったみょうがのお
汁にしよう。買い物を終え店を出た私が、ふと空を見上げると、まだ明
るい空にあの日と同じような雲が浮かんでいた。
鮮やかに並んでいるのを見て、「今年も半分が過ぎてしまったんだな〜」
と実感した。するとその時、果物の甘い香りと一緒に、懐かしい香りが
漂っている事に気がついた。それは、みょうがだった。
私は、みょうがの香りをかぐと、蚊取り線香を思い出す。私の母は、
みょうがが好物だった。私が小さい頃に住んでいた家には、猫の額ほど
の狭い庭があった。そしてその庭の隅っこの方に、みょうがが植えてあ
ったのだ。しかしその場所は、生垣のすぐ横で植木の間を通りぬけない
と行かれなかった。つまり大人ではなかなか入ることができない場所だっ
たのだ。
毎年、本格的な夏が始まる少し前のこの時期になると、学校から帰宅す
る私を、母はてぐすねを引いて待っていて、遊びに行くまえにみょうが
を取りにいかせるのだった。しかし、みょうがは庭の隅っこ。そこは、
薮蚊の巣のような所なのだ。30年も前のことなので今のように虫除けス
プレーはなく、母は私に蚊取り線香を持たせてそのヤブへ送り出した。
しかし、百戦錬磨の薮蚊に細くたなびく蚊取り線香の煙などで打ち勝つ
事ができるはずもない。私は蚊取り線香の煙の中を平然とつきぬけて私
をめがけて飛んでくる薮蚊に体じゅうを刺され、そこらじゅうをボリボ
リとかき、早く遊びに行きたいと思いながら、母に持たされたカゴが一
杯になるまで、一生懸命みょうがを取った。
時々、母が私に声をかける。振り向くと、植木越しに縁側に立つ母の姿
が見えた。私が「今年もたくさん取れたよ」と、みょうがで一杯になっ
たカゴを見せると。ゆらゆらとくゆる蚊取り線香の煙の向こうに、母の
笑顔があった。もしかしたら、私はあの母の笑顔が見たくて、みょうが
を取っていたのかもしれない。そして、蚊取り線香の煙は、私に夏を連
想させた。みょうがは私に、夏がもうすぐそこまで来ていることも教え
てくれていた。
八百屋さんの店頭でみょうがを見つけた私の脳裏には、そんな子どもの
頃思い出がよぎり、なんとなく蚊に刺されたようなかゆみを感じ、腕を
ポリポリと掻いている私がいた。今晩は、母が好きだったみょうがのお
汁にしよう。買い物を終え店を出た私が、ふと空を見上げると、まだ明
るい空にあの日と同じような雲が浮かんでいた。
2004 07/07 17:45
Category : 日記
先日、中学2年になる娘が、帰宅するなり私にこう聞いて来た。「国会議員って
さ、国民の代表なんだよね?」。私が「そうだよ」と答えると、「つまり、学校で言
えば代表委員みたいな人だよね?」と食い付くようにして聞いてくる。「そうかな?
選挙で選ばれた人だから、そうなるかな?」と私が言うと、娘は急に怒った顔つきに
なり、「選挙で選ばれた人なんだったら。なんであんな人達ばかりなの?」と言って
きた。
中学2年生にもなれば、学校でも国会の仕組みや働きを勉強しているし、ニュース
番組も大人と同じように見るようになる。時には、政治家が参加した討論会をみてい
る事もある。でも、どうして急にそんなことに対して怒るようになったのかを、娘に
聞いてみた。すると、今娘のクラスに交換留学生が来ているのだという。その彼女に
国会議員のことを聞かれて、返事に困ったと娘はいうのだ。
参議院選挙がらみの報道で、先の国会で行われた強行採決の様子をニュースでやっ
ていたのを、留学生の彼女が見たのだ。そして、その時止めもせずに平然としていた
総理大臣が、自ら大写しになって「日本を良くしよう!」などと訴えかけるCMも流れ
ている。その様子が、留学生の彼女には、不思議でたまらないらしい。「なんで、な
んで?」と聞いて来たが、娘はなにも言えなかったのだという。「日本の国会は大人
どうしでケンカをするところなの?それを止めないで認めている人が、CMに出てても
いいの?と彼女に言われて、物凄く恥ずかしかったよ!でも、私も変だと思う。みん
な今度決まった年金法案は変だって言ってるのに、なんであんなケンカみたいな方法
で無理やり決めるの?なんで、そんな変な法律を作った人なのに、CMになんかでてる
の?」と、私にその質問をぶつけて来た。
しかし、申し訳ないが私にも娘を納得させられるような説明は出来なかった。それ
は、その疑問はそのまま私の疑問でもあったからだ。仕方なく、「国会議員は国民の
代表だけど、でもいろんな大人がいるからさ。日本の大人は、そんな大人ばかりじゃ
ないから」と言うと。「ずるいよそんなの」と娘が反論して来た。「大人は、すぐ子
どもに「ちゃんとしろ!とか言うくせに、大人の代表の人だって全然ちゃんとしてな
いじゃない。それにさ、どこかの子どもが事件を起こすと、すぐに同い年だって言う
だけで「アンタは大丈夫?」みたいなことをいうくせに、大人はいろんな大人がいる
からで済ませるなんて、ずるいよ」と、娘はかなり怒っていた。
私は娘に言われて確かにそうだと頷いてしまった。娘は、先日幼児をマンションか
ら突き落としてしまった女子と同い年である。また、昨年長崎で4歳の幼児を、駐車
場から投げ落とした男子とも同い年である。私自身は、娘に対して「あなたはそんな
事しないよね」と確認をしたことはないが、多分学校などでは注意をされる事が多い
のだろう。娘にしてみれば、同い年だったり年が近いというだけで、同じような事を
するのではないかという疑いをかけられているようで嫌なのだろう。
私は、もう一度娘に年金法案のことや、今度選挙があるのでそれぞれの政党の代表
の人が登場するCMが流れていることを説明し、私自身はそのことに対して納得はして
いないということも話をした。娘は「もう一度留学生の彼女にもできる限り説明して
みるよ」と言った。そして、自分の部屋へ向おうとした時、クルッと振りかえってこ
う言った。「今度の選挙ではさ、今の国会議員のみたいな変な人には投票しないで
ね。留学生の彼女に、日本は変な大人ばかりだと思われるの、ホント恥ずかしいんだ
から」と念を押した。
娘に言われるまでもなく、国会議員は私達が選挙で選んだ代表なのだ。そして、そ
の国会議員の代表が総理大臣なのである。「内閣支持率が40%に急落した」という新
聞の記事を見た時、急に残りの60%の人は今の日本の政治を恥ずかしいと思っている
人の数字に思えて来た。もう目の前に迫った参議院選挙で、私達の新しい代表がきま
る。私達の代表は、子ども達の代表でもあるのだ。せめて子ども達に、あんな人を選
ぶなんてと言われないように、子ども達の分までしっかりと選んで投票したいと思っ
ている。
さ、国民の代表なんだよね?」。私が「そうだよ」と答えると、「つまり、学校で言
えば代表委員みたいな人だよね?」と食い付くようにして聞いてくる。「そうかな?
選挙で選ばれた人だから、そうなるかな?」と私が言うと、娘は急に怒った顔つきに
なり、「選挙で選ばれた人なんだったら。なんであんな人達ばかりなの?」と言って
きた。
中学2年生にもなれば、学校でも国会の仕組みや働きを勉強しているし、ニュース
番組も大人と同じように見るようになる。時には、政治家が参加した討論会をみてい
る事もある。でも、どうして急にそんなことに対して怒るようになったのかを、娘に
聞いてみた。すると、今娘のクラスに交換留学生が来ているのだという。その彼女に
国会議員のことを聞かれて、返事に困ったと娘はいうのだ。
参議院選挙がらみの報道で、先の国会で行われた強行採決の様子をニュースでやっ
ていたのを、留学生の彼女が見たのだ。そして、その時止めもせずに平然としていた
総理大臣が、自ら大写しになって「日本を良くしよう!」などと訴えかけるCMも流れ
ている。その様子が、留学生の彼女には、不思議でたまらないらしい。「なんで、な
んで?」と聞いて来たが、娘はなにも言えなかったのだという。「日本の国会は大人
どうしでケンカをするところなの?それを止めないで認めている人が、CMに出てても
いいの?と彼女に言われて、物凄く恥ずかしかったよ!でも、私も変だと思う。みん
な今度決まった年金法案は変だって言ってるのに、なんであんなケンカみたいな方法
で無理やり決めるの?なんで、そんな変な法律を作った人なのに、CMになんかでてる
の?」と、私にその質問をぶつけて来た。
しかし、申し訳ないが私にも娘を納得させられるような説明は出来なかった。それ
は、その疑問はそのまま私の疑問でもあったからだ。仕方なく、「国会議員は国民の
代表だけど、でもいろんな大人がいるからさ。日本の大人は、そんな大人ばかりじゃ
ないから」と言うと。「ずるいよそんなの」と娘が反論して来た。「大人は、すぐ子
どもに「ちゃんとしろ!とか言うくせに、大人の代表の人だって全然ちゃんとしてな
いじゃない。それにさ、どこかの子どもが事件を起こすと、すぐに同い年だって言う
だけで「アンタは大丈夫?」みたいなことをいうくせに、大人はいろんな大人がいる
からで済ませるなんて、ずるいよ」と、娘はかなり怒っていた。
私は娘に言われて確かにそうだと頷いてしまった。娘は、先日幼児をマンションか
ら突き落としてしまった女子と同い年である。また、昨年長崎で4歳の幼児を、駐車
場から投げ落とした男子とも同い年である。私自身は、娘に対して「あなたはそんな
事しないよね」と確認をしたことはないが、多分学校などでは注意をされる事が多い
のだろう。娘にしてみれば、同い年だったり年が近いというだけで、同じような事を
するのではないかという疑いをかけられているようで嫌なのだろう。
私は、もう一度娘に年金法案のことや、今度選挙があるのでそれぞれの政党の代表
の人が登場するCMが流れていることを説明し、私自身はそのことに対して納得はして
いないということも話をした。娘は「もう一度留学生の彼女にもできる限り説明して
みるよ」と言った。そして、自分の部屋へ向おうとした時、クルッと振りかえってこ
う言った。「今度の選挙ではさ、今の国会議員のみたいな変な人には投票しないで
ね。留学生の彼女に、日本は変な大人ばかりだと思われるの、ホント恥ずかしいんだ
から」と念を押した。
娘に言われるまでもなく、国会議員は私達が選挙で選んだ代表なのだ。そして、そ
の国会議員の代表が総理大臣なのである。「内閣支持率が40%に急落した」という新
聞の記事を見た時、急に残りの60%の人は今の日本の政治を恥ずかしいと思っている
人の数字に思えて来た。もう目の前に迫った参議院選挙で、私達の新しい代表がきま
る。私達の代表は、子ども達の代表でもあるのだ。せめて子ども達に、あんな人を選
ぶなんてと言われないように、子ども達の分までしっかりと選んで投票したいと思っ
ている。