人様と他人
人様という言葉がある。辞書を引くと「他人を敬った言い方」とある。私の小さい頃
は、「特別に敬った」言い方ではなく、日常的に他人を指す言葉として使われていた
ように記憶している。しかし最近では、「人様に迷惑をかけないように」とか「人様
の物に手を出すなんて」という言い方は、時代劇の中のセリフぐらいでしか耳にする
機会が無くなって来ている。一見すると、自分の家族以外の人達を「他人」と呼ぼう
が、「人様」と呼ぼうが、あまり違いは無いようにも感じる。しかし、他人と人様に
は根本的に大きな違いがあると思う。

個性を大事にしようという発想が、世間に広まり出したのはいつ頃からだったか定か
ではないが、その個性を主張し始めたころから、段々周りを気にするべきではないと
いう発想も出てきたように思える。また、個性を大事にするということを、単に個性
を主張して、己を大事にすれば周りは大事にしなくてもよいというように勘違いをし
ている人も多いようにも感じる。そして、そういう発想の広がりと共に、人様という
呼び方から他人という呼び方に変わって行ったような気がする。

人様という言葉には、個である自分と、また違う個である人様というお互いの個を尊
重した関係があるように思う。そこには、島国という狭い土地の中で暮らして来た日
本人が、古来から培って来た。譲り合い、気遣いあうという気持ちや心構えが背景に
あるように思えるのだ。しかし、それに対して、他人という呼び方は、まさしく自分
や自分の家族以外の人という意味で、そこには自分と他(自分以外)という関係しか
見えて来ない気がする。

そのためか、人様の物という言い方には、自分の物ではなく人様のものなのだから大
事に扱わなくてはいけない、という暗黙のニュアンスがあるように思え。それに対し
て、他人の物という言い方には、自分の管理外の物なので自分が大事にする責任も必
要もないというニュアンスがあるように感じられる。たかがニュアンスだけの問題で
対した影響は無いようにも思えるが。言葉とは日々の暮らしの中で、常に使うもので
ある。日常の中で、「敬う気持ち」や「思いやる気持ち」に無意識のうちに、接して
いいるかいないかでは、心の中に育まれていくものも違ってくるのではないかと思
う。

人様という言葉一つだけを使うようになったからといって、急に人の心に思いやりが
産まれたり、犯罪が無くなるというような、大きな変化は出てこないかもしれない。
しかし、日々の暮らしの中で、言葉の一つ一つの意味や役割を見直して使っていくこ
とで、未来は変わって行くのかもしれない。