オリーブニュース:Lサイド「サンタはどこにいる」
先日友人が、子ども達にいつサンタは実在しないのだという話しをしたかと聞かれ
た。彼女には小学3年生の男の子がいる。その子の友達が遊びに来ていた時のこと。
友人の子どもは、「サンタはいる」と言ったのだが、サンタなんかいないといわれて
ケンカになったらしい。友人の息子は、「ママはいるって言ってたもん」と主張して
いるのを聞いて、友人は心が痛んだという。

そう言えば、私も小さい頃サンタがいると信じていて騒動を起こしたことがあった。
確かあれは私が小学1年の時だった。クリスマスまで一週間余りのある日、サンタが
入ってくるための煙突が我家にもあるか?と探したことがあったのだ。だが、唯一見
つけた煙突は、風呂釜だった。これではサンタが焼け死んでしまう!そう思ってしま
ってからクリスマスイブまで間、私の勝手な取り越し苦労が始まった。誰に話す事が
出来ないまま、一人で対策を練っていた。結局、クリスマスイブには、サンタが来る
時間にお風呂に入らなければいいんだと、結論を出し実行した。しかしその夜、物音
で目を覚ました私は驚いた。夜遅く帰宅した父がお風呂に入っていたのだ。それを見
て、私は父がサンタを焼き殺してしまったと勘違いをした。ずっと私の心の中にあっ
た心配が的中してしまったことや、サンタはもう居ないというショックなど、私の勝
手な取り越し苦労は大きな泣き声になって出た。なんで泣いているのか理解できなか
った両親も、切れ切れにわけを話す私の言葉を聞き、一所懸命私をなだめてくれたら
しい。たぶん、サンタは実在しないのだという話しもその時聞いたのだと思う。

我家の子ども達の時は、長女が小学2年生の時だった。娘が希望したおもちゃが、い
つ手に入るのか目処が立たなかった。下の息子にだけ先に渡そうかとも考えたのだ
が。娘が、サンタが自分にだけプレゼントを持って来なかったと傷ついてしまっても
困るということになり、夫が子ども達に打ち明ける事にした。サンタが居なくても、
プレゼントはもらえると分かったせいか、子ども達の反応は結構あっさりしていた。
当時保育園の息子は、「毎年いろんなデパートの包み紙だったから、変だと思ってた
んだ」と言ってた。友人にその話しをすると、「うちもそろそろカナ〜」と、ちょっ
と寂しげに言った。

サンタクロースとは、4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの主教、キリスト教の教父聖
ニコラウスを起源としている。ある日ニコラウスは、貧しくて娘を嫁に出せない家が
あるのを知り、その家の窓に金貨を投げた。この金貨で娘は嫁に行くことができたと
いう伝説が残されており「奇跡の奉仕者」とも呼ばれていた。この時、金貨が暖炉の
そばに干してあった靴下に入ったことから、吊るした靴下にプレゼントを入れる風習
ができたとされている。ニコラウスは、教会では聖人として列聖されているため、聖
(セント)・ニコラウスと呼ばれ、これが北欧の訛りで、サンタクロースになったと
いう。またあの赤い服も、司教服の色に由来し、コカ・コーラ社が宣伝に用いるため
に赤い服を着せたものが広まったのだ。

だが、なぜ日本人はクリスマスに熱心なのだろう。特にサンタは、小さい子を持つほ
とんどの家庭では、実在することになっている。一つには、子どもにプレゼントをあ
げるという事に対して照れのような物を感じる日本人が、サンタという架空の人物か
らのプレゼントという事で、それをスムーズに行う事が出来たからかもしれない。そ
れと、親が自分の子どもの、子どもらしさや純粋さを親が測る一つの目処に、サンタ
を利用しているような気がする。「ママが(パパが)そう言ったんだから」と親の言
うことを信じる子どもの心を、サンタの存在を使って確認しているようにも見える。
だが、サンタはプレゼントを運ぶ宅配屋でも便利屋でもない。そして、そんな事で子
どもの本質を確認する事もないだろう。

受け継がれるべきは、ニコラウスが持っていた気持ちの優しさである。サンタが物語
の中だけの人になってしまっても。誰かが誰かのことを思い、その人の望む物やその
人のためになにかをプレゼントする。サンタはそんな、優しい思いや心の中に居るの
である。