引きこもり
先日の叔父の法事の席で、従姉弟の友人の青年と世間話をしていた

その青年は、某人形作家のもとで助手をしている。大学に通っている時に、その作家の人形にあい、それからとりこになってしまったのだという「知らないでしょう?」と彼は言ったが

短大の芸術系の学科にいた私は、実はその手の話題にも通じていたりしたので、その人形作家の名前を言い当ててしまったことから話しが弾み始めたのだ

妖艶な作風で知られるその作家の作る人形の面立ちが、目の前にいる線の細い青年の顔に重なって見える

『普通にサラリーマンは出来ない、いわゆる引きこもりなんです』という彼に、私は「実はね、私も引きこもりの”け”があるの」と言うと

「また〜、アタラシもの好きなんだから〜!」と十歳も年の違う青年にいなされてしまった。「いいから聞いてよ、実はね・・・」と私の引きこもりの”け”についてのエピソードを話すと

彼は段々。「うんうん!」と頷きだして、そのうち手を叩いて大きな声で笑い出した

「一見そんな風に見えないですけどね〜。明るいし、人見知りしない感じで!」

「でしょ〜?隠れ引きこもりなのよ!」と言うと。酔いも手伝ってか?かなり彼のツボを突いてしまったらしい。座布団から転げ落ちて笑っていた

大体、40代も目の前だって言うのに、いきなりライターを目指そうなんて本気で考えてしまうこと自体、要素は大なのかもしれない

いや、内心私が『引きこもり』自体を悪いことだとは思っていないからこんな事が言えるのかも知れない

本当の引きこもりはもっと深刻なのかも知れないが、隠れ引きこもりのおばさんはこう思う

思う存分引きこんで、そしてそこから、「なんか動いてみようかな?」って思える時が来たら
思う存分動けばいいのではないかと

挫折も、引きこもることもない人間なんているはずがない。そこで引きこもってしまうかどうか?は、それはその人の甘えのせいでもなんでも無くて

それだけ感性が豊かなだけなのだ、心の重さの感じかたが違うだけなのだ

勇気なんて、ただ振り絞っても出てくるものではない、ようはキッカケの問題だと思う

思いっきり背筋を伸ばしてみたくなったら、その時自分の体のむいている方に歩き出せばいい

なんで地球は丸いのか?それはきっと、道は一本では無いからだと思う。どちらに歩き出したって、足は自分の前にニョキっと進み出るのだ

ライターとして引きこもらなければこなせなくなるくらい、仕事が出来るようになったらいいなぁ〜?なんて、見当違いのことを考えながら、法事からの帰宅の途を歩んでいた