2002 11/15 23:19
Category : 日記
私は、小心者で優柔不断なA型なせいか?
ついつい歯に絹を着せた言い方になってしまうところがある
私の父はいわゆる「口の汚い」人だった。子供の目から見ても「常識から言っても、そんなこと言わないよな〜」って思ってしまうような悪口を(本人はそうは思っていないらしかったが)平気で本人の前で言うような所のある人だった
私も幼子頃に「そんなことを言わなくても」と思うようなこと言われて良く凹まされていた
そのせいか?ついつい「こんな言い方をしたら、相手はどんな風に思うだろうか?」と気にしすぎてしまうようだ
だからと言って、そんなに人間が出来ているわけではないので、人並みにいろんなことがカチンと来ていたりするものだから、心中穏やかでないことが多々あるのだ
物を書こう!と思ったきっかけには、そんな小心者の私が、本人を目の前にして言えないことを
「それは違うんじゃないかなぁ〜?と私は思うのだけれど皆さんはどうですか?」と、問いたくてはじめたようなところがある
改めて考え直してみると、私だけじゃなく皆もおかしいと思っているんだ!という味方が欲しかったのかも知れない。まあ、小心者の考え付きそうな一種の責任転化かもしれない
しかも私は、小心者の癖に負けず嫌いなところがある。へんなところ意地っ張りなのだ
そのせいか、手を振りかざすようにして、高飛車に物を言われると、それが正論でも、ついつい反論したくなってしまう
へそ曲がりなのかも知れない、と自分でも良く思うのだが、なかなかそのくせは治らない
しかし、いかに正論だったとしても、斜に構えて声高に唱えられると、コッチも構えて聞いてしまうせいか?その人の言葉や、本当の意味は心に響いては来ないような気がするのは私だけだろうか?
良く知られた童話に「北風と太陽」というのがあるが、まさにその状態のような気がする
コッチが依怙地になればなるほど、受けるほうも頑なに心を閉じてしまい、話しは平行線のままになってしまのではないだろうか?
あたたかく大らかな太陽のように、少し引いて説いてくれた方が、受ける側としてもキチント心で受けとめることが出来るような気がする
若さや、パワーがある人は、ついついそのままの勢いで走ってしまうことが多い。立ち止まることを知らないのか?立ち止まってしまうことを臆病だと思うのか?
私もそいうところがあったと思う。でも、立ち止まって見るのも良いものだと最近思うようになってきた。立ち止まって廻りを見てみると、結構気づかないで通り過ぎてしまった景色が見えて来たりする
そして、その景色には、新しい発見があったり、見過ごしてしまうにはあまりにももったい無いものが隠れている時もある
立ち止まることは、決して臆病なことでも
遠回りなことでもないと思うようになってきたのだ
誰かに物を言う時には、相手が見ている景色を自分も見る努力をしなくては行けない場合もあるのではないだろうか?
声高に自分の言いたいことを主張するだけでなく、相手の立場の目を持つことで、より良く相手に理解してもらえたり、受け入れてもらうことが出きるのではないかと思うからだ
今の私の場合は「物を言うこと=文章を書くこと」だ。
相手の目を意識して物を見る努力はそれなりにしてはいるが、小心者という生まれ持った性質は、なかなか克服することが出来ずにいる
もしかしたら、こんな小心者の私がライターになろうなんて、それこそ誰かの「物言い」がついてしまいそうなことなのかも知れない
ついつい歯に絹を着せた言い方になってしまうところがある
私の父はいわゆる「口の汚い」人だった。子供の目から見ても「常識から言っても、そんなこと言わないよな〜」って思ってしまうような悪口を(本人はそうは思っていないらしかったが)平気で本人の前で言うような所のある人だった
私も幼子頃に「そんなことを言わなくても」と思うようなこと言われて良く凹まされていた
そのせいか?ついつい「こんな言い方をしたら、相手はどんな風に思うだろうか?」と気にしすぎてしまうようだ
だからと言って、そんなに人間が出来ているわけではないので、人並みにいろんなことがカチンと来ていたりするものだから、心中穏やかでないことが多々あるのだ
物を書こう!と思ったきっかけには、そんな小心者の私が、本人を目の前にして言えないことを
「それは違うんじゃないかなぁ〜?と私は思うのだけれど皆さんはどうですか?」と、問いたくてはじめたようなところがある
改めて考え直してみると、私だけじゃなく皆もおかしいと思っているんだ!という味方が欲しかったのかも知れない。まあ、小心者の考え付きそうな一種の責任転化かもしれない
しかも私は、小心者の癖に負けず嫌いなところがある。へんなところ意地っ張りなのだ
そのせいか、手を振りかざすようにして、高飛車に物を言われると、それが正論でも、ついつい反論したくなってしまう
へそ曲がりなのかも知れない、と自分でも良く思うのだが、なかなかそのくせは治らない
しかし、いかに正論だったとしても、斜に構えて声高に唱えられると、コッチも構えて聞いてしまうせいか?その人の言葉や、本当の意味は心に響いては来ないような気がするのは私だけだろうか?
良く知られた童話に「北風と太陽」というのがあるが、まさにその状態のような気がする
コッチが依怙地になればなるほど、受けるほうも頑なに心を閉じてしまい、話しは平行線のままになってしまのではないだろうか?
あたたかく大らかな太陽のように、少し引いて説いてくれた方が、受ける側としてもキチント心で受けとめることが出来るような気がする
若さや、パワーがある人は、ついついそのままの勢いで走ってしまうことが多い。立ち止まることを知らないのか?立ち止まってしまうことを臆病だと思うのか?
私もそいうところがあったと思う。でも、立ち止まって見るのも良いものだと最近思うようになってきた。立ち止まって廻りを見てみると、結構気づかないで通り過ぎてしまった景色が見えて来たりする
そして、その景色には、新しい発見があったり、見過ごしてしまうにはあまりにももったい無いものが隠れている時もある
立ち止まることは、決して臆病なことでも
遠回りなことでもないと思うようになってきたのだ
誰かに物を言う時には、相手が見ている景色を自分も見る努力をしなくては行けない場合もあるのではないだろうか?
声高に自分の言いたいことを主張するだけでなく、相手の立場の目を持つことで、より良く相手に理解してもらえたり、受け入れてもらうことが出きるのではないかと思うからだ
今の私の場合は「物を言うこと=文章を書くこと」だ。
相手の目を意識して物を見る努力はそれなりにしてはいるが、小心者という生まれ持った性質は、なかなか克服することが出来ずにいる
もしかしたら、こんな小心者の私がライターになろうなんて、それこそ誰かの「物言い」がついてしまいそうなことなのかも知れない