車社会と責任
日本もアメリカと同じように一家に1台の車社会の時代である。地方に行けば運転する人の数だけ車がいるようである。
その一方交通事故は減らず、相変わらず悲惨な事故のニュースの毎日です。ちょっとした不注意で事故はおきる、車を運転するものにとって
自分は事故を起こさないという気持ちはだししももっています、しかし事故に巻き込まれるケースもあります。車を運転するものは常に責任をもって注意して運転したいものです。


アメリカは車社会だ。郊外の町では、運転できる家族の人数分の自動車がずらっと駐車してある家も珍しくはない。
アメリカでは州によって異なるが、大体16歳になれば免許を取得できるので、高校の選択授業として車の運転や修理の実習があるぐらいだ。親としては子供が運転をはじめるのは心配な一方、これで長年続いた学校やお稽古事への送り迎えをしなくてよくなるので、子供が免許を取得すると、直ぐ車を買い与える人も多い。
周りを見ていても、郊外に住む親は子供のお抱え運転手のようなもの。極端な例では、子供が3人いて、それぞれ小学校、中学校、高校に通い、1人につきスイミング、サッカー、ピアノなどのお稽古事が2つ3つはいっていると、これらをジグソーパズルのように組み合わせ、送り迎えをするだけで親の毎日は過ぎていく。
程度の差はあれ、車での送り迎えはアメリカでの「親業」の一部なのだ。
一方。10代のこどもたちにとって車の運転をはじめることは、自分の好きなとき、好きな場所に親の同伴なしで行くことができる「自由」「自立」「行動範囲の広がり」を手に入れる特別の意味を持つ。この新たに得た自由が、飲酒運転にもつながることもある。未成年の飲酒が禁止されているのはアメリカでも同じだが、それが守られていないのも日本と同じである。高校卒業パーティーの日には、学生たちが飲酒する
可能性が高いため、学校主催で保護者の監視の下、お酒なしのオールナイトパーティーを催すことを勧める声もある。それはそれで別の心配があるような気がするが、飲酒運転による事故を避けることが大前提なのだ。
昨年の飲酒運転による死亡者は全米で1万7401人、けが人は50万人以上と推測されている。
日本から出張にきた人が「アメリカ人は日本人のように酔いつぶれるまで飲まないんだね」と感心していたが、これも車社会だからだ。分別ある大人は、外食時にビールやワインを飲んでも、1,2杯にしておくことを心得ている。
大学生が仲間と一緒に車でパーティーに行くときには帰りの運転をする人を1人決めておいて、その人は飲まないのが常識だ。車の運転によって得る自由は、責任との抱き合わせなのだ。

アメリカの家庭事情を調べておられる大阪生まれでボストン在住のライター兼女性のための護身術(IMPACT)のセルフディフェンスインストラクターの田原知代子さんが書いた記事を抜粋しました。
(毎日新聞より)