2004年06月の記事


 後を断たない、幼児の事故
 先日、2歳の女の子が交通事故に遭って命を落としたというニュースが流れてい
た。24日午後9時20分ごろ、大分市下判田の国道10号線の交差点で、2歳10か月の女児
が、会社員男性の乗用車にはねられ、約7時間後に外傷性ショックで死亡した。女児
は台車に乗って道路を横断中で、台車を押していた近くの男児(2歳5か月)にけがは
なかった。県警大分南署の調べによると、事故にあった女児と男児の親同士は知り合
いで、両親ら計6人でパチンコ店に来ていた。玉を運ぶ台車で遊んでいて、店内から
道路に出たらしい。運転していた男性は「青信号で交差点を通過中、二人が右側から
出てきた。ブレーキをかけたが間に合わなかった」と話しているという。(6/25読売
新聞より)

 このニュースを耳にした時、私は背筋が寒くなるのを感じた。じつは、そのすこし
前に、同じような場面に遭遇したからだ。場所は我家のマンションの玄関前だった。
そこは、幅4mほどの道路と細い横道がT字路になっている。横道の奥には、我家も
お世話になった保育園がある。その保育園の園児らしき子が、その道を横断しようと
していたところをみかけたのだ。3〜4歳の男の子だったのだが、道路の向こうから
車がきているのにも関わらずいきなり横断し始めた。後からは、母親らしき人がその
子の名前を大声で叫ぶ声と「危ない!」という声が聞こえた。

 たまたま、車のドライバーさんが、子どもが飛び出してくることを予測してかなり
減速していたので、男の子とぶつかる直前で車を止めてくれ男の子は怪我をすること
も無かったが、普通の速度で走っていたら私はその事故の目撃者になってしまうとこ
ろだった。しかし、その後の光景の方がもっと私には信じがたいものになった。道路
の反対側から火がついたように大声で怒鳴っている母親の声に、へらへらと笑って答
える男の子の姿だった。私も、2歳違いの二人の子ども達を何年間もこの保育園に送
り迎えしていた経験があるが、このT字路では危険回避から子ども達の手を決して離
さなかった記憶が有る。

 しかしその母親は、大声では怒鳴って注意しただけで、走って子供を止めるわけで
もなく、子どもに駆けよって怪我の有無を確認することもしなかったのだ。親の不注
意で子どもが犠牲になってしまう場合、犠牲になってしまった子どもはかわいそうだ
と思う。また、自分の不注意で子どもを失ってしまった親も心に傷を負うことになる
かもしれない。しかし、その事故を起こしてしまったドライバーは、突然飛び出され
たにも関わらず、加害者になってしまうのだ。もし、事故の状況などが考慮され罪を
問われることは免れたとしても、自分が子どもを轢いてしまったという事実は、心に
深い傷になるかもしれない。また、私のようにその事故を目撃してしまった人がいた
としたら、その人も同じように心に傷を負うことになるかもしれないのだ。

 基本的に、子どもは何をするか分からないところがある。また、大人にとっては何
気ないものでも、充分遊び道具として活用してしまう場合もある。その大人にはない
発想は、時には大人にとっての死角になってしまうのだ。だとしたら、幼児を事故の
危険にさらさないためには、やはり幼児からは手や目を離さないようにすることしか
対策はないだろうと思う。連日のように流される、幼児が犠牲になる事故のニュース
を、小さいお子さんをお持ちの親御さん達は、対岸の火事とは思わず、自分達の日常
も見直すようにして欲しいと思う。
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再発防止のために必要なことは?
小学6年生になる息子が、学校から帰宅するなり私にカッターナイフを預けに来た。
学校でカッターナイフを持って帰るように言われたのだという。佐世保で起きた事件
の凶器にカッターナイフが使われた事を受けて、学校はカッターナイフを危険物とし
て取扱う事にしたらしい。

他にも、今回の加害者女児の好きな本の中に、バトルロワイヤルなどの過激な殺人
シーンが出てくる物があり、その過激な描写も事件の引き金になっているのではない
かという報道もある。実は息子も、少し前まで、ゾンビや怪物を倒す描写が過激で有
名なゲームをやっていた事があった。私は、そのあまりにリアルで過激な描写を見
て、(いくらコンピュータの技術が進んだと言っても、たかがゲームでここまでリア
ルに表現する必要があるだろうか?)とも思ったことがあった。もしかしたら、その
ゲームの影響を息子も受けていて、加害者女児と同い年の息子も、同じようなことを
考えているのではないか?と不安になった。

また、犯行動機に、ネットの掲示板の書きこみによるトラブル物があったとされてい
る。確かに、ネットでのコミュニケーションでは、日常的に直接会って取るコミュニ
ケーションの場合よりもニュアンスが伝わりにくい。また、送り手と受け手との間
で、言葉の解釈に温度差があった場合には、誤解やトラブルを産みやすいのは確か
だ。ただ、今回の加害者と被害者はクラスメイトである。クラスという密室の中で、
そのトラブルが煮詰まってしまったことも事件を大きくする要因になったのではない
か、という説もある。

実は先日、息子が学校に行きたくないと言った事があった。クラスの数人の子がいじ
めてくるのが嫌だというのだ。その前日、息子は膝を大きく擦りむいて帰って来た。
鬼ごっこの最中、物陰に隠れていた息子が他の所へ動こうとした時、突然後から突き
飛ばされて転んだのだという。慌てて振り向くと、いじめてくるグループの子数人が
立っていて、実際に誰が押して来たのかは分からなかったらしい。

息子はその後しばらく学校へ行くことが出来なかった。しかし、連絡を受けた担任の
先生がすぐにクラスで話しをしてくれたおかげでいじめは一応収まった。心配して毎
日迎えに来てくれる子もいたために今では元気に登校しているが、そんな事があった
ばかりなので、私はあえて息子に尋ねてみた「ねえ、誰か学校の友達で、凄く頭にく
る子がいて、その子を殺したいとかって思った事ある?」。 息子は「殺したいなん
て思うわけないじゃん。それに、ちょっと包丁で指を切っても、あんなに血が出て痛
いんだよ?あり得ないよそんなの」と答えた。「じゃあ、もし、うんと頭に来る子が
いたら、どうする?」と聞くと。「多分ケンカになるね。オレは男だから、もしかし
たら取っ組み合いになるかもしれないけどさ」と答えた。

続いて私は「そう言えば、この前までやってたゾンビを倒すゲームやらないね?」と
聞いた。すると息子は「だって、ゾンビを打ったり倒したりすると、ママが隣りで
『痛い、痛い』ってうるさいんだもん」と言った。私が「あのゲーム、リアルで凄く
痛そうなんだよね」と私が言うと。息子は「まあね」とちょっと笑いながら言った。

カッターナイフもネットもゲームも、道具であり使うのは人間である。つまり、それ
を使ったり利用したりする人や、その人の気持ちによってどうにでもなるものだ。だ
としたら、カッターナイフやネットやゲームを子ども達から取り上げただけでは、こ
のような事件の再発を防ぐ事は出来ないと思う。それよりも先に、子ども達に人との
接し方や心の持ちようなどを教える必要があると思う。

誰かに対して嫌だと思う事があるなら、直接その事を伝える等して、それを解消する
ための方法を探るべきである。それによってケンカをしてしまったら、仲直りをすれ
ば良いのだ。その時に、親が子どもの心の中にある気持ちやストレスを一度受けとめ
てあげたり、問題解決のためのアドバイスをしていけばいい。そのためには、親子の
間で普段からコミュニケーションがきちんと取れている必要があると思う。そして、
子ども達はケンカや仲直りを繰り返し、自分の心や相手の心が傷ついたり、傷つけて
しまったこと感じながら、他人とのコミュニケーションの仕方や、自分の気持ちの折
り合いのつけ方を学んでいくのだと思うから。
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人様と他人
人様という言葉がある。辞書を引くと「他人を敬った言い方」とある。私の小さい頃
は、「特別に敬った」言い方ではなく、日常的に他人を指す言葉として使われていた
ように記憶している。しかし最近では、「人様に迷惑をかけないように」とか「人様
の物に手を出すなんて」という言い方は、時代劇の中のセリフぐらいでしか耳にする
機会が無くなって来ている。一見すると、自分の家族以外の人達を「他人」と呼ぼう
が、「人様」と呼ぼうが、あまり違いは無いようにも感じる。しかし、他人と人様に
は根本的に大きな違いがあると思う。

個性を大事にしようという発想が、世間に広まり出したのはいつ頃からだったか定か
ではないが、その個性を主張し始めたころから、段々周りを気にするべきではないと
いう発想も出てきたように思える。また、個性を大事にするということを、単に個性
を主張して、己を大事にすれば周りは大事にしなくてもよいというように勘違いをし
ている人も多いようにも感じる。そして、そういう発想の広がりと共に、人様という
呼び方から他人という呼び方に変わって行ったような気がする。

人様という言葉には、個である自分と、また違う個である人様というお互いの個を尊
重した関係があるように思う。そこには、島国という狭い土地の中で暮らして来た日
本人が、古来から培って来た。譲り合い、気遣いあうという気持ちや心構えが背景に
あるように思えるのだ。しかし、それに対して、他人という呼び方は、まさしく自分
や自分の家族以外の人という意味で、そこには自分と他(自分以外)という関係しか
見えて来ない気がする。

そのためか、人様の物という言い方には、自分の物ではなく人様のものなのだから大
事に扱わなくてはいけない、という暗黙のニュアンスがあるように思え。それに対し
て、他人の物という言い方には、自分の管理外の物なので自分が大事にする責任も必
要もないというニュアンスがあるように感じられる。たかがニュアンスだけの問題で
対した影響は無いようにも思えるが。言葉とは日々の暮らしの中で、常に使うもので
ある。日常の中で、「敬う気持ち」や「思いやる気持ち」に無意識のうちに、接して
いいるかいないかでは、心の中に育まれていくものも違ってくるのではないかと思
う。

人様という言葉一つだけを使うようになったからといって、急に人の心に思いやりが
産まれたり、犯罪が無くなるというような、大きな変化は出てこないかもしれない。
しかし、日々の暮らしの中で、言葉の一つ一つの意味や役割を見直して使っていくこ
とで、未来は変わって行くのかもしれない。
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お仕置きと虐待
最近、幼児虐待のニュースが流れるたびに、私は自分の小さい頃の事を思い出す。先
日のコラムでも書いたが、わたしはかなりのおてんばだった。私の父は、元軍人だっ
た事もあり、普段は無口で無愛想な人だったが、子どもを叱る時には、これ以上無い
というほどの大きな声で「ばか者!」と怒鳴った。そして、言い訳もなにもする暇も
なく、有無をいわせずゲンコツをガツンと一発食らわせて、「反省しろ!」と一言言
うと、さっさと自分の部屋へ行ってしまった。しかし、その「ばか者!」の迫力とゲ
ンコツは、今思い出しても震えあがってしまうほど恐くて痛いもので、私にとって
は、父に怒られるという事への恐怖は並大抵のものではなかった。

それに引き換え母は、ふだんから小言が耐えず、何かというと私を板の間に正座をさ
せては説教をした。そして、返事のしかたが悪いとか、反省の色が見えないといって
は、竹のものさしでピシャリッと足やお尻を叩いて来た。子ども心に、「なにも、も
のさしで叩かなくても…」という思いはあったが、不思議と虐待されているというよ
うな感覚は無かった。

幼馴染のガキ大将も、いたずらをしたとか、誰かを泣かしたといっては、叱られて、
ゲンコツをもらったりお尻を打たれたりしていた。時々、道端で母親に捕まり、お仕
置きをされている事もあったが、それを見ている近所の人達も。「またお母さんに叱
られるような事をして、ダメじゃないか〜」等というだけで、誰も虐待をしていると
いう見方はしていなかったと思う。それは、「お尻を叩く」という行為が、お仕置き
(子どもを懲らしめるための行為)として行われている事を、母親も子どもも近所の
人も皆が知っていたからだと思う。

そんなある日、私はまた学校でおてんばをして男の子を泣かせてしまった。散々廊下
に立たされた挙句に、親が学校に呼び出された。放課後の廊下で、数人のワルガキに
混ざってたたされながら、私はどんなに叱られるかと内心ビクビクしながら、親たち
と先生との話しが終わるのを待っていた。

教室から出てきた母は、無言のまま私のランドセルを持って家路についた。私の少し
前を歩きながら、決して振り向かない母の背中に、私は母の怒りの大きさを感じた気
がした。そして家に着くと、いつものようにまた板の間に正座をさせられた。私は当
然ものさしが出てくるものと覚悟していたのだが、母はいきなり大粒の涙を流して、
手のひらでピシャピシャと私の膝小僧を叩きながら、「なんで何回言ってもわからな
いの」と一言言った。

私は、突然の事に驚いて、ただ「ゴメンナサイ」というしか出来なかった。母に叩か
れた膝は、痛くもなんとも無かったが、心が痛くて仕方が無かった。戦前生まれの母
にすれば、男の子より活発なおてんば娘の行く末を、本当に心から案じていたのだろ
う。そして、その子を思う愛情やぬくもりは、母の竹のものさしからも、ピシャピ
シャと叩かれた膝小僧からも、そして死ぬほど痛かった父のゲンコツからも、私に伝
わっていた。

お仕置きとは、何かに悪いことをした時に、それをこらしめるための行為であり、怒
るのではなく叱るための行動で、そこが虐待とは根本的に違うところなのだと思う。
体罰が良いとは決して思わないが、その当時の私にとっては、ものさしもゲンコツ
も、スキンシップの一部であったのかもしれない。
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