2008年06月の記事
2008 06/26 04:32
Category : 日記
*
akkyさんのblogに「離岸流」のことが載っていました
「離岸流」のことは知っていましたが
改めて勉強になりました
ここでは詳しく述べませんが
「離岸流」のことを知らないために
毎年 海での事故が起きているようです
泳げない私は遠浅の海で波と戯れる程度ですが
万が一沖に流されたら・・と考えただけでも怖いです
今年の夏 湘南の海で浮き袋に摑まり
サイドカレントにのってアタフタしてる男がいたら
多分私ですから よろしくお願いします(笑)
素潜りなら永遠に潜っていられる自信があります!
・・・って 自慢になりませんよね~
毎年、海の事故は亡くなりません
悲しい海にしないためにも各自が海に対する認識を
持ちたいものですね
今年の夏も遠浅の海で波と戯れる私です
*
akkyさんのblogに「離岸流」のことが載っていました
「離岸流」のことは知っていましたが
改めて勉強になりました
ここでは詳しく述べませんが
「離岸流」のことを知らないために
毎年 海での事故が起きているようです
泳げない私は遠浅の海で波と戯れる程度ですが
万が一沖に流されたら・・と考えただけでも怖いです
今年の夏 湘南の海で浮き袋に摑まり
サイドカレントにのってアタフタしてる男がいたら
多分私ですから よろしくお願いします(笑)
素潜りなら永遠に潜っていられる自信があります!
・・・って 自慢になりませんよね~
毎年、海の事故は亡くなりません
悲しい海にしないためにも各自が海に対する認識を
持ちたいものですね
今年の夏も遠浅の海で波と戯れる私です
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2008 06/19 05:39
Category : 日記
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万葉集にある梅の歌・・・
「酒杯に 梅の花浮かべ 思うどち
飲みての後は 散りぬともよし」
こう詠んだのは 大伴坂上郎女
杯に梅の花を浮かべて飲んでしまった後は
もう花は散ってもかまいませんという意味
万葉集にある梅の歌は役120首
桜の役40首に比べても
奈良時代には梅が非常に愛されていたことがわかります
平安時代の日本初の医術書「医心法」には
梅の実の効用として「気を下し 心臓を静め 下痢を止め・・・」
というくだりがあり 当時は食品としてではなく
薬として珍重されていたことがうかがえます
ただし 現代の梅干とは別もので
シソの葉を使わない梅の実の塩漬けでした
三日三晩の土用干しを経た梅干が登場するのは江戸時代初期
それ以降 庶民でも自家製の梅干を作るようになりました
そこで 今年の夏は梅干ならぬ 梅酒作りに挑戦したいと思います
使うのは入梅の雨に当たらない堅い青梅
ただし ガリガリの堅すぎる梅ではいけないし
かといって色づいてしまったものでは遅すぎます
梅農家から購入するのが理想だそうですが
スーパーに出回っているものでOKとしましょう(笑)
梅はもちろん焼酎にもこだわってみたいです
本醸造の麦焼酎を使うと発酵もうまく進み
年を経るごとに熟成し だんだん琥珀色に
リカーだと熟成はある時点で止まるようです
氷砂糖の量も梅の6~7割とすくなめでいきたいと思います
3週間ほどで梅の実が浮き上がってきたら とりあえず完成
冷暗所で保存し 1年後以降 飲み始める・・・頃には
無くなっているのです(笑)
梅に関するお話でした
*
万葉集にある梅の歌・・・
「酒杯に 梅の花浮かべ 思うどち
飲みての後は 散りぬともよし」
こう詠んだのは 大伴坂上郎女
杯に梅の花を浮かべて飲んでしまった後は
もう花は散ってもかまいませんという意味
万葉集にある梅の歌は役120首
桜の役40首に比べても
奈良時代には梅が非常に愛されていたことがわかります
平安時代の日本初の医術書「医心法」には
梅の実の効用として「気を下し 心臓を静め 下痢を止め・・・」
というくだりがあり 当時は食品としてではなく
薬として珍重されていたことがうかがえます
ただし 現代の梅干とは別もので
シソの葉を使わない梅の実の塩漬けでした
三日三晩の土用干しを経た梅干が登場するのは江戸時代初期
それ以降 庶民でも自家製の梅干を作るようになりました
そこで 今年の夏は梅干ならぬ 梅酒作りに挑戦したいと思います
使うのは入梅の雨に当たらない堅い青梅
ただし ガリガリの堅すぎる梅ではいけないし
かといって色づいてしまったものでは遅すぎます
梅農家から購入するのが理想だそうですが
スーパーに出回っているものでOKとしましょう(笑)
梅はもちろん焼酎にもこだわってみたいです
本醸造の麦焼酎を使うと発酵もうまく進み
年を経るごとに熟成し だんだん琥珀色に
リカーだと熟成はある時点で止まるようです
氷砂糖の量も梅の6~7割とすくなめでいきたいと思います
3週間ほどで梅の実が浮き上がってきたら とりあえず完成
冷暗所で保存し 1年後以降 飲み始める・・・頃には
無くなっているのです(笑)
梅に関するお話でした
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2008 06/08 10:17
Category : 日記
*
「汚れちまった悲しみに・・・・」等で
多くのフアンをもつ詩人・中原中也
大正14年(1925年)に18歳で上京後
なくなるまでの13年間で19回の転居を繰り返す引越し魔でした
それは 新宿・中野周辺だけで11ケ所に及んでいます
大正14年3月10日 長谷川泰子を伴い京都から上京して数日間は
牛込区早稲田鶴巻町の旅館「早成館」へ宿泊(1)
3月 東京市外戸塚源兵衛195(新宿区西早稲田3)の林方に下宿(2)
4月 府下中野町1985 新井薬師通赤門 永島方
(中野区中野5-45-46)の一戸建て
(六畳・四畳半・板の間台所)に転居(3)
泰子が始めて小林秀雄に出会う
5月 府下杉並町高円寺249に転居(4)
11月下旬 三角関係の末 泰子が小林の許へ去る
中野区桃園3398(中野区中野3-1-3)に転居(5)
昭和元年(1926年)4月 日本大学予科文科に入学
5月 中野町桃園3465(中野区中野3ー24)に転居(6)
10月 中野町上町(中野区宮園通4)に転居(7)
11月 中野町桃園3398の下宿に戻る(8)
昭和3年9月 上北沢近くの 豊多摩郡高井戸町
下高井戸2丁目403(杉並区下高井戸4)に転居(9)
昭和4年1月 豊多摩郡渋谷町神山23に転居(10)
4月 同人誌「白痴郡」創刊(翌年6号で廃刊)
5月 北豊島郡長崎町1037(豊島区千早1)に転居(11)
小林と別れた長谷川泰子と京都へ出かけるが 相部屋を断られ
泰子は大岡昇平の部屋に泊まる
その後 復縁を迫ったが結局かなわず
7月 豊多摩郡高井怒張中高井戸37(杉並区松庵3)の一軒家へ転居(12)
昭和5年9月 豊多摩郡代々幡町代々木山谷(渋谷区代々木2-32)に転居(13)
9月 中央大学予科に入学
昭和6年4月 東京外国語学校専修科仏語部入学(現 東京外国語大学)
7月 豊多摩郡千駄ヶ谷町872(渋谷区代々木2-29-14)に転居(14)
12月 千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872(同 2-29-30)に転居(15)
昭和7年8月 荏原郡馬込町北千束621(大田区北千束2)に転居(16)
この年 坂口安吾と出会う
昭和8年12月 故郷・山口で上野孝子と結婚式
四谷区花園町95 花園アパート2号館(現在の花園東公園)に新居を構える(17)
青山二郎らが住み文壇の面々が集まるサロンのような場だった
昭和9年 10月長男文也誕生
昭和10年 6月 牛込区市谷町62の借家に転居(18)
花園アパートの文壇と離れ鬱々とする
昭和11年 11月長男文也病没
12月 次男愛雅誕生 この頃 神経衰弱が高じる
昭和12年 1月 千葉の中村古峡診療所に入院
2月 鎌倉町扇ヶ谷181寿福寺境内に転居(19)
9月 詩集「在りし日の歌」を小林秀雄に託す
10月22日 結核性脳膜炎で死去 享年30歳
中也の生き方には考えさせられますが
まず驚かされるのが 13年間で19回の転居でしょう
(私も上京後はかなり転居を繰り返しましたが・笑)
中也の転居は新宿・中野だけでも11ヶ所に及んでいます
中野在住の私は中也の住居跡地を訪ねてみることにしました
大正11年11月に移り住んだ中野町桃園3398
(現 中野区中野3-1-3)の下宿先は
通り面したに建物の裏手に辺り
83年経った現在は小さな駐車場となってました
(携帯で撮った画像を‘気ままな絵日記’に載せています)
次に訪れたのが6番目の転居先である中野町桃園3465
(中野区中野3-24)を訪ねてみました
現在は高級住宅街で大きなお屋敷が建っていました
中也は坂道の多いこの辺りを中野駅に向けて
てくてくと歩いたのでしょう
当時の風景を(想像)心に描いて中也の詩を口ずさんでみました
「汚れちまった悲しみに・・・」
*
「汚れちまった悲しみに・・・・」等で
多くのフアンをもつ詩人・中原中也
大正14年(1925年)に18歳で上京後
なくなるまでの13年間で19回の転居を繰り返す引越し魔でした
それは 新宿・中野周辺だけで11ケ所に及んでいます
大正14年3月10日 長谷川泰子を伴い京都から上京して数日間は
牛込区早稲田鶴巻町の旅館「早成館」へ宿泊(1)
3月 東京市外戸塚源兵衛195(新宿区西早稲田3)の林方に下宿(2)
4月 府下中野町1985 新井薬師通赤門 永島方
(中野区中野5-45-46)の一戸建て
(六畳・四畳半・板の間台所)に転居(3)
泰子が始めて小林秀雄に出会う
5月 府下杉並町高円寺249に転居(4)
11月下旬 三角関係の末 泰子が小林の許へ去る
中野区桃園3398(中野区中野3-1-3)に転居(5)
昭和元年(1926年)4月 日本大学予科文科に入学
5月 中野町桃園3465(中野区中野3ー24)に転居(6)
10月 中野町上町(中野区宮園通4)に転居(7)
11月 中野町桃園3398の下宿に戻る(8)
昭和3年9月 上北沢近くの 豊多摩郡高井戸町
下高井戸2丁目403(杉並区下高井戸4)に転居(9)
昭和4年1月 豊多摩郡渋谷町神山23に転居(10)
4月 同人誌「白痴郡」創刊(翌年6号で廃刊)
5月 北豊島郡長崎町1037(豊島区千早1)に転居(11)
小林と別れた長谷川泰子と京都へ出かけるが 相部屋を断られ
泰子は大岡昇平の部屋に泊まる
その後 復縁を迫ったが結局かなわず
7月 豊多摩郡高井怒張中高井戸37(杉並区松庵3)の一軒家へ転居(12)
昭和5年9月 豊多摩郡代々幡町代々木山谷(渋谷区代々木2-32)に転居(13)
9月 中央大学予科に入学
昭和6年4月 東京外国語学校専修科仏語部入学(現 東京外国語大学)
7月 豊多摩郡千駄ヶ谷町872(渋谷区代々木2-29-14)に転居(14)
12月 千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872(同 2-29-30)に転居(15)
昭和7年8月 荏原郡馬込町北千束621(大田区北千束2)に転居(16)
この年 坂口安吾と出会う
昭和8年12月 故郷・山口で上野孝子と結婚式
四谷区花園町95 花園アパート2号館(現在の花園東公園)に新居を構える(17)
青山二郎らが住み文壇の面々が集まるサロンのような場だった
昭和9年 10月長男文也誕生
昭和10年 6月 牛込区市谷町62の借家に転居(18)
花園アパートの文壇と離れ鬱々とする
昭和11年 11月長男文也病没
12月 次男愛雅誕生 この頃 神経衰弱が高じる
昭和12年 1月 千葉の中村古峡診療所に入院
2月 鎌倉町扇ヶ谷181寿福寺境内に転居(19)
9月 詩集「在りし日の歌」を小林秀雄に託す
10月22日 結核性脳膜炎で死去 享年30歳
中也の生き方には考えさせられますが
まず驚かされるのが 13年間で19回の転居でしょう
(私も上京後はかなり転居を繰り返しましたが・笑)
中也の転居は新宿・中野だけでも11ヶ所に及んでいます
中野在住の私は中也の住居跡地を訪ねてみることにしました
大正11年11月に移り住んだ中野町桃園3398
(現 中野区中野3-1-3)の下宿先は
通り面したに建物の裏手に辺り
83年経った現在は小さな駐車場となってました
(携帯で撮った画像を‘気ままな絵日記’に載せています)
次に訪れたのが6番目の転居先である中野町桃園3465
(中野区中野3-24)を訪ねてみました
現在は高級住宅街で大きなお屋敷が建っていました
中也は坂道の多いこの辺りを中野駅に向けて
てくてくと歩いたのでしょう
当時の風景を(想像)心に描いて中也の詩を口ずさんでみました
「汚れちまった悲しみに・・・」
*