2002 11/06 13:51
Category : 日記
日曜日、紅葉を見に行こう、と国東半島方面へ。目的は「富貴寺」(国宝)だったが、途中「熊野磨崖仏」へ寄った。
そんなに急ではないものの、超運動不足の私にとっては、山道を20分位登った所が限界だった。喘息が出てきていたからだ。
そこからは「九十九段の石段」なのだが、角度が45度くらいあり、いかにも辛そうだったので私だけその地点で待つことにした。
吸引薬を吸いながら、旦那と子供達が登るのをぼんやり眺めていると、ふいに
「もう登らないの?」
と60歳位の女性に声をかけられた。
「えぇ、ちょっと……喘息が……」
と答えると、
「少しずつでも登ってみない?」
と言われたが、肩で息をするのが精一杯の私はうつむいて黙っていた。
「私ね、癌が4つもあるの!…もう、長くないのよ。だけど、自分がやれることをやってみようと思って登ってるの。…薬、持ってるの?そう、もう吸ったの。…どう?きっとできるよ。ねぇ、少しずつでもいいから、一緒に行ってみない?きっと綺麗よ、上は!」
私はふいに、涙が出てきた。
自分よりはるかに年配の人や、自分のまだ小さい子供達が登っていくのを見ながら、自分は情けないなぁ、と思いながらも「喘息だから仕方がない」と、自分で言い訳をしていた。
そのことを、自分の甘えを、恥じた。
今までもそうだった。きつい、苦しいと予測されることは「喘息のせい」にして逃げていた。
喘息だけでなく「子供が小さいから」とか「育児で疲れているから」とか、面倒な事やしんどいことから逃げていた。
この人を目の前にして、そして「できるよ」と言われて、「一緒にやろう」と言われて、もう逃げる理由はなかった。
私はその1歩を踏み出した。
私にとっては、大きな1歩だった。
彼女と一緒にいた男性(ご主人と思っていたが違った)が、水筒や子供の着替えの入ったバックを持ってくださった。
今思えば、何をこんなに持って行く必要があったのか不思議なくらい、重たい荷物だった。
自分の足がある、そのひとつ上の段に杖を立て、足を上げる。一段一段、踏みしめた。
時折「無理しなくていいよ」「ゆっくりね」「深呼吸して」「ほら、上でお子さんが待ってるよ」と声をかけられながら登っていると、あるときフッ、と呼吸が軽くなった。
薬のせいもあったかもしれないが、それは多分、私が何かを振り切った瞬間だった。
そして、うっそうと木が茂りひんやりした石段をとうとう登り、大きな磨崖仏に明るい光が当っている姿を見た時、何とも言えない清々しさと感動を覚えた。
涙で声にならないお礼を言い、握手した。それでも治まらなくて思わず彼女に抱きついた。
「頑張った、頑張ったね。できたじゃない。」と、彼女は優しく抱きしめてくれた。
どうして私が登ってきたのか、そしてどうしてこの方と抱き合って泣いているのか、さっぱりわからない旦那は、そんな私をそっとしておいてくれた。
そこのベンチで、彼女はもうすぐ手術をすること、したら多分、良くて半身不随か首から下が麻痺するかもしれない、もちろんもう逝っちゃうかもしれないこと、臼杵でふぐ料理の旅館をやっていることなどを話して下さった。
しばらく休んで、もう少し上にある神社まで登ることに。全然嫌だ、とかきついとか、もう思わなかった。
神社は秋の柔らかな日差しの中、ひっそりとあった。お賽銭を入れ、手を合わせ、今日のこの出会いに感謝した。
下りは逆に、その角度と不揃いな石段に時折足を踏み外して転げ落ちそうになる子供を片手に、自分自身を支える杖を片手に、順調に下りた。石段を下りてしばらく行った所で、彼女は苦しそうに腰を押さえながら、男性に支えられていた。心配だったが、子供が転がるように下りていくので先に行かせてもらった。
駐車場でしばらく待っていると2人が下りてきた。
私はもう一度お礼を言おうと、車のところに行った。
「旅館の車なのよ。いつでもいらっしゃい」
正月に実家の家族や姉夫婦とどこか泊まりたいねー、と言っていたのを思い出し、聞いてみると
「じゃぁ、ここに電話をちょうだい」と、車体に書いてある旅館の名前と電話番号を指差した。
「厚めに切ったふぐが自慢よ」と。
彼女らが走り去るのを、感謝の気持ちで深く頭を下げ見送った。
癌を4つも抱えて尚、前向きに生きている人を目の当たりにして、喘息くらいでくよくよと逃げてばかりいる自分が、心底情けなかった。恥ずかしかった。
もしあの時、彼女に出逢わなければ、私は何も得ることなく、変わるきっかけもなく、これからもずっと逃げっぱなしの人生を送ったかもしれない。
でも、今、私の中で何かが確実に変わった。
この日のことを一生忘れない。
私はもう、逃げない。
そんなに急ではないものの、超運動不足の私にとっては、山道を20分位登った所が限界だった。喘息が出てきていたからだ。
そこからは「九十九段の石段」なのだが、角度が45度くらいあり、いかにも辛そうだったので私だけその地点で待つことにした。
吸引薬を吸いながら、旦那と子供達が登るのをぼんやり眺めていると、ふいに
「もう登らないの?」
と60歳位の女性に声をかけられた。
「えぇ、ちょっと……喘息が……」
と答えると、
「少しずつでも登ってみない?」
と言われたが、肩で息をするのが精一杯の私はうつむいて黙っていた。
「私ね、癌が4つもあるの!…もう、長くないのよ。だけど、自分がやれることをやってみようと思って登ってるの。…薬、持ってるの?そう、もう吸ったの。…どう?きっとできるよ。ねぇ、少しずつでもいいから、一緒に行ってみない?きっと綺麗よ、上は!」
私はふいに、涙が出てきた。
自分よりはるかに年配の人や、自分のまだ小さい子供達が登っていくのを見ながら、自分は情けないなぁ、と思いながらも「喘息だから仕方がない」と、自分で言い訳をしていた。
そのことを、自分の甘えを、恥じた。
今までもそうだった。きつい、苦しいと予測されることは「喘息のせい」にして逃げていた。
喘息だけでなく「子供が小さいから」とか「育児で疲れているから」とか、面倒な事やしんどいことから逃げていた。
この人を目の前にして、そして「できるよ」と言われて、「一緒にやろう」と言われて、もう逃げる理由はなかった。
私はその1歩を踏み出した。
私にとっては、大きな1歩だった。
彼女と一緒にいた男性(ご主人と思っていたが違った)が、水筒や子供の着替えの入ったバックを持ってくださった。
今思えば、何をこんなに持って行く必要があったのか不思議なくらい、重たい荷物だった。
自分の足がある、そのひとつ上の段に杖を立て、足を上げる。一段一段、踏みしめた。
時折「無理しなくていいよ」「ゆっくりね」「深呼吸して」「ほら、上でお子さんが待ってるよ」と声をかけられながら登っていると、あるときフッ、と呼吸が軽くなった。
薬のせいもあったかもしれないが、それは多分、私が何かを振り切った瞬間だった。
そして、うっそうと木が茂りひんやりした石段をとうとう登り、大きな磨崖仏に明るい光が当っている姿を見た時、何とも言えない清々しさと感動を覚えた。
涙で声にならないお礼を言い、握手した。それでも治まらなくて思わず彼女に抱きついた。
「頑張った、頑張ったね。できたじゃない。」と、彼女は優しく抱きしめてくれた。
どうして私が登ってきたのか、そしてどうしてこの方と抱き合って泣いているのか、さっぱりわからない旦那は、そんな私をそっとしておいてくれた。
そこのベンチで、彼女はもうすぐ手術をすること、したら多分、良くて半身不随か首から下が麻痺するかもしれない、もちろんもう逝っちゃうかもしれないこと、臼杵でふぐ料理の旅館をやっていることなどを話して下さった。
しばらく休んで、もう少し上にある神社まで登ることに。全然嫌だ、とかきついとか、もう思わなかった。
神社は秋の柔らかな日差しの中、ひっそりとあった。お賽銭を入れ、手を合わせ、今日のこの出会いに感謝した。
下りは逆に、その角度と不揃いな石段に時折足を踏み外して転げ落ちそうになる子供を片手に、自分自身を支える杖を片手に、順調に下りた。石段を下りてしばらく行った所で、彼女は苦しそうに腰を押さえながら、男性に支えられていた。心配だったが、子供が転がるように下りていくので先に行かせてもらった。
駐車場でしばらく待っていると2人が下りてきた。
私はもう一度お礼を言おうと、車のところに行った。
「旅館の車なのよ。いつでもいらっしゃい」
正月に実家の家族や姉夫婦とどこか泊まりたいねー、と言っていたのを思い出し、聞いてみると
「じゃぁ、ここに電話をちょうだい」と、車体に書いてある旅館の名前と電話番号を指差した。
「厚めに切ったふぐが自慢よ」と。
彼女らが走り去るのを、感謝の気持ちで深く頭を下げ見送った。
癌を4つも抱えて尚、前向きに生きている人を目の当たりにして、喘息くらいでくよくよと逃げてばかりいる自分が、心底情けなかった。恥ずかしかった。
もしあの時、彼女に出逢わなければ、私は何も得ることなく、変わるきっかけもなく、これからもずっと逃げっぱなしの人生を送ったかもしれない。
でも、今、私の中で何かが確実に変わった。
この日のことを一生忘れない。
私はもう、逃げない。