2004 05/12 12:17
Category : 日記
辞書で「責任」と引いてみると。自分が引き受けて行わなければならない任務。義
務。自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(三省堂
‐大辞林より‐)とある。イラクで拘束されてしまった方々に問われている「自己責
任」とは、後者にあたると思う。ただ、今回のケースの場合は、その方々に責任を問
うべきなのかどうか自体が問題なのだが。一般的には、誰かが何かをしたり、事が起
きた時に、それに対して何かしなくてはいけない事、それがその人の責任だと思う。
こんな風に固い文章で書くと、「責任」とは大人のだけに当てはまる事のように思え
る。しかし、本当は、それぞれの年令や能力に応じて、取れる範囲で責任を取るべき
なのではないかと思う。つまり、子どもだから騒いでしまったり壊してしまっても仕
方がないと考えるのではなく、子どもでもその事に対して注意された段階で「静かに
する」とか「謝る」という子どもなりの責任を取らせるべきだと思うのだ。そして、
子どもが取った責任では足りないと思われる部分を、親なり監督者が補足するべきな
のだと思う。
そうして、その子どもの大きさや能力に応じた責任を持たせ、対処させて行くこと
で、子どもの中にも、責任に対しての認識が産まれ、その責任を果たすことで自信が
生まれていくのだと思う。
六本木ヒルズで先日起きた事故では、この部分でビルの所有者とドアを作ったメー
カーの間で、どちらが責任を取るべきなのか?で発言が食い違いを見せていた。ま
た、オリーブニュースの読者から「メーカーや森ビルだけではなく、親の管理責任を
問わないのはおかしい」とお便りも届けられた。確かに、マスコミは、森ビルやメー
カーの責任や、国土交通省までもが責任を追及されている状態で、子どもの保護者で
あり、その場に居合わせた母親の責任が追求されないはずがない。
事故にあってしまった少年は、事件当日初め母親と手をつないでいたが、回転ドア近
くで手を離した。母親の少し先を小走りで屋外からドア内に入ろうとして、ドアの側
面ガラスと固定のステンレス製の枠との間に頭を挟まれた。ドアの回転は止まった。
(3月26日付 asahi.comより)慣れない場所で、迷子になるなどの危険を回避するた
めに、はじめはきちんと母親と手を繋いでいた。しかし、回転ドアの物珍しさについ
手を離してしまい、事故に遭ってしまったのだろう。
ほんの一瞬の気のゆるみだったのだと思う。しかし、そこで「手繋いでいる」という
責任を親子共に怠ってしまったために、わずか6歳の少年は命と引き換えに、自分の
責任と、母親が追うべき責任までも償う事になってしまったのではないだろうか。
こうして見てみると、母親にも事故に遭った少年にも責任の一端があることは明白
だ。しかし、それを母親に対して追求する事は、第3者である私達にはできないと思
う。なぜなら、責任の追及とはその人の行為によって直接的に利害関係のある人だけ
行う事ができる行為だと思われるからだ。しかし、あの回転ドアの事故のように大き
な事故の責任の所在を明らかにするためには、当然裁判をすることになるだろう。そ
うなれば、当然ビルの管理者や回転ドアの製造メーカーと共に、現場に居合わせた母
親の保護者としての管理責任や事故に遭ってしまった少年の過失も審議されることに
なる。
我が子を目の前で失ってしまった瞬間のことを、何度となく繰り返し検証される場に
立ち会う事になり、「あの瞬間、自分が手を離さずにいれば」と、強い後悔の念に駆
られる彼女の心境を思うと、私はいたたまれない気がする。
だとしたら、私達母親にできることは、彼女のような悲劇が今後繰り返されることが
ないように、安全装置やセンサーに任せずに、自分の手で子ども達の命を守るように
することだろう。つまり、人が多い場所やエスカレータなどがある場所では、絶対に
子どもから手を離さないようにし、子どもにもその意味やその子が追うべき責任をき
ちんと説明し、それを理解して行動出来るように躾ていくことだと、私は思う。
務。自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(三省堂
‐大辞林より‐)とある。イラクで拘束されてしまった方々に問われている「自己責
任」とは、後者にあたると思う。ただ、今回のケースの場合は、その方々に責任を問
うべきなのかどうか自体が問題なのだが。一般的には、誰かが何かをしたり、事が起
きた時に、それに対して何かしなくてはいけない事、それがその人の責任だと思う。
こんな風に固い文章で書くと、「責任」とは大人のだけに当てはまる事のように思え
る。しかし、本当は、それぞれの年令や能力に応じて、取れる範囲で責任を取るべき
なのではないかと思う。つまり、子どもだから騒いでしまったり壊してしまっても仕
方がないと考えるのではなく、子どもでもその事に対して注意された段階で「静かに
する」とか「謝る」という子どもなりの責任を取らせるべきだと思うのだ。そして、
子どもが取った責任では足りないと思われる部分を、親なり監督者が補足するべきな
のだと思う。
そうして、その子どもの大きさや能力に応じた責任を持たせ、対処させて行くこと
で、子どもの中にも、責任に対しての認識が産まれ、その責任を果たすことで自信が
生まれていくのだと思う。
六本木ヒルズで先日起きた事故では、この部分でビルの所有者とドアを作ったメー
カーの間で、どちらが責任を取るべきなのか?で発言が食い違いを見せていた。ま
た、オリーブニュースの読者から「メーカーや森ビルだけではなく、親の管理責任を
問わないのはおかしい」とお便りも届けられた。確かに、マスコミは、森ビルやメー
カーの責任や、国土交通省までもが責任を追及されている状態で、子どもの保護者で
あり、その場に居合わせた母親の責任が追求されないはずがない。
事故にあってしまった少年は、事件当日初め母親と手をつないでいたが、回転ドア近
くで手を離した。母親の少し先を小走りで屋外からドア内に入ろうとして、ドアの側
面ガラスと固定のステンレス製の枠との間に頭を挟まれた。ドアの回転は止まった。
(3月26日付 asahi.comより)慣れない場所で、迷子になるなどの危険を回避するた
めに、はじめはきちんと母親と手を繋いでいた。しかし、回転ドアの物珍しさについ
手を離してしまい、事故に遭ってしまったのだろう。
ほんの一瞬の気のゆるみだったのだと思う。しかし、そこで「手繋いでいる」という
責任を親子共に怠ってしまったために、わずか6歳の少年は命と引き換えに、自分の
責任と、母親が追うべき責任までも償う事になってしまったのではないだろうか。
こうして見てみると、母親にも事故に遭った少年にも責任の一端があることは明白
だ。しかし、それを母親に対して追求する事は、第3者である私達にはできないと思
う。なぜなら、責任の追及とはその人の行為によって直接的に利害関係のある人だけ
行う事ができる行為だと思われるからだ。しかし、あの回転ドアの事故のように大き
な事故の責任の所在を明らかにするためには、当然裁判をすることになるだろう。そ
うなれば、当然ビルの管理者や回転ドアの製造メーカーと共に、現場に居合わせた母
親の保護者としての管理責任や事故に遭ってしまった少年の過失も審議されることに
なる。
我が子を目の前で失ってしまった瞬間のことを、何度となく繰り返し検証される場に
立ち会う事になり、「あの瞬間、自分が手を離さずにいれば」と、強い後悔の念に駆
られる彼女の心境を思うと、私はいたたまれない気がする。
だとしたら、私達母親にできることは、彼女のような悲劇が今後繰り返されることが
ないように、安全装置やセンサーに任せずに、自分の手で子ども達の命を守るように
することだろう。つまり、人が多い場所やエスカレータなどがある場所では、絶対に
子どもから手を離さないようにし、子どもにもその意味やその子が追うべき責任をき
ちんと説明し、それを理解して行動出来るように躾ていくことだと、私は思う。