2004年05月の記事
2004 05/26 20:35
Category : 日記
幼い頃、私の遊び相手は男の子ばかりで、幼馴染はガキ大将だった。私の両親は、昭
和1ケタの生まれだったせいか、そんな私に対して、スカートを履いて木登りをした
と言っては「お行儀が悪い」、いたずらをしたと言っては「お行儀が悪い」と叱っ
た。つまり、私がなにかしでかすとすぐに「お行儀が悪い!」と言って叱ったのだ。
この「行儀が悪い」という言葉は親にしてみると実に便利な言葉である。素行全般あ
らゆる事に対して通用する広い意味を持っているからだ。そのため当時の私は、なに
かをしている最中に「行儀が悪い」と母親に言われると、とりあえず動きを止めて、
声を掛けて来た母が私のところへ来るまでの間、いったい自分の行動の何に対して
「行儀が悪い」といわれたのかを考えざるを得なかった。しかし、当時近所でも有名
なおてんば娘だった私には、「行儀が悪い」とたしなめられるような心当たりは山ほ
どあった。
母は私の目の前に立つといつも、「なんで叱られてるのかわかる?」と聞いて来た。
仕方がなく私は、思い当たる“悪行”を白状することになる。時には余計なことまで
暴露してしまい、大目玉を食らってしまう事もしばしばだった。そのために、当時私
は「『お行儀が悪い』という叱り方をする親はずるい」と思っていた。しかし、時が
経ち自分が親になってみると、この言葉の便利さは魅力だった。
これは先日、我家の近くの古くからある商店街の、私が小さい時からあるお味噌屋さ
んでのことだ。今でも、お味噌を量り売りしてくれるそのお店で、息子がお店の秤に
いたずらをした。受け皿のところを上から指でグイッと押し込んだのだ。私は間髪い
れずに「お行儀が悪い」と叱りつけた。我家の息子も、幼い頃の私同様、慌てて秤か
ら手を離して身を固くした。
私はゆっくり息子の所に行って「なんで叱られたかわかる?」と聞いた。すると息子
は小さな声で「秤を触ったから?」と言った。「そうよ。お店の物とか、人様の物に
勝手に触ったりしちゃダメでしょう?特に、お店で使う秤は絶対いじっちゃダメよ。
お仕事ができなくなってしまうでしょう」と言った。すると息子は「なんで、ちょっ
と触っただけジャン」と言い返す。「あのね、お商売で使う秤は、ちゃんと狂ってい
ないか毎年検査を受けるのよ。もし壊れてしまっていたら、おばさんの所はお商売が
できなくなってしまうでしょ?だから絶対触ってはだめ」と説明すると、息子はまじ
まじとその秤を見ていた。すると、いきなりお店のおばさんが大声で笑い出してこう
言った。「いまどき、お店の物を触って『行儀が悪い』って叱られてる子がいるなん
てねぇ〜」
おばさんの話では、秤だけではなくお店の商売物でさえ、勝手に子どもが触っても注
意をする親は少ないと言う。例え、「だめよ」と注意しても、なぜダメなのかを説明
すれる親御さんも少ないらしい。秤を触った息子に対して、私がいきなり「行儀が悪
い」と叱りつけたことは、おばさんには新鮮にみえたらしい。「昔は良く『行儀が悪
い』って叱られたよね〜?最近は行儀なんてものはどうでもいいのかと思ってたよ」
そう言ってまたおばさんは笑った。
行儀という言葉を辞書で引くと「1.作法にかなうかどうかという点から見た立ち居
振る舞い。2.おこない。しわざ。したこと。」(大辞林より)とある。作法にかな
うという観点は、あまりにも古臭いと思うかも知れないが、人間が暮らしていくため
に必要なルールの一つが作法であるなら、それにかなう行動を取ることを子どもに教
えて行くことは、古い新しいということではなく、普遍的に必要な事だと思う。周り
の人から、「古臭い母親だ」と思われるかもしれないが、多分私はこれから先も、子
どもに「行儀が悪い」と叱りつづけていくと思う。
和1ケタの生まれだったせいか、そんな私に対して、スカートを履いて木登りをした
と言っては「お行儀が悪い」、いたずらをしたと言っては「お行儀が悪い」と叱っ
た。つまり、私がなにかしでかすとすぐに「お行儀が悪い!」と言って叱ったのだ。
この「行儀が悪い」という言葉は親にしてみると実に便利な言葉である。素行全般あ
らゆる事に対して通用する広い意味を持っているからだ。そのため当時の私は、なに
かをしている最中に「行儀が悪い」と母親に言われると、とりあえず動きを止めて、
声を掛けて来た母が私のところへ来るまでの間、いったい自分の行動の何に対して
「行儀が悪い」といわれたのかを考えざるを得なかった。しかし、当時近所でも有名
なおてんば娘だった私には、「行儀が悪い」とたしなめられるような心当たりは山ほ
どあった。
母は私の目の前に立つといつも、「なんで叱られてるのかわかる?」と聞いて来た。
仕方がなく私は、思い当たる“悪行”を白状することになる。時には余計なことまで
暴露してしまい、大目玉を食らってしまう事もしばしばだった。そのために、当時私
は「『お行儀が悪い』という叱り方をする親はずるい」と思っていた。しかし、時が
経ち自分が親になってみると、この言葉の便利さは魅力だった。
これは先日、我家の近くの古くからある商店街の、私が小さい時からあるお味噌屋さ
んでのことだ。今でも、お味噌を量り売りしてくれるそのお店で、息子がお店の秤に
いたずらをした。受け皿のところを上から指でグイッと押し込んだのだ。私は間髪い
れずに「お行儀が悪い」と叱りつけた。我家の息子も、幼い頃の私同様、慌てて秤か
ら手を離して身を固くした。
私はゆっくり息子の所に行って「なんで叱られたかわかる?」と聞いた。すると息子
は小さな声で「秤を触ったから?」と言った。「そうよ。お店の物とか、人様の物に
勝手に触ったりしちゃダメでしょう?特に、お店で使う秤は絶対いじっちゃダメよ。
お仕事ができなくなってしまうでしょう」と言った。すると息子は「なんで、ちょっ
と触っただけジャン」と言い返す。「あのね、お商売で使う秤は、ちゃんと狂ってい
ないか毎年検査を受けるのよ。もし壊れてしまっていたら、おばさんの所はお商売が
できなくなってしまうでしょ?だから絶対触ってはだめ」と説明すると、息子はまじ
まじとその秤を見ていた。すると、いきなりお店のおばさんが大声で笑い出してこう
言った。「いまどき、お店の物を触って『行儀が悪い』って叱られてる子がいるなん
てねぇ〜」
おばさんの話では、秤だけではなくお店の商売物でさえ、勝手に子どもが触っても注
意をする親は少ないと言う。例え、「だめよ」と注意しても、なぜダメなのかを説明
すれる親御さんも少ないらしい。秤を触った息子に対して、私がいきなり「行儀が悪
い」と叱りつけたことは、おばさんには新鮮にみえたらしい。「昔は良く『行儀が悪
い』って叱られたよね〜?最近は行儀なんてものはどうでもいいのかと思ってたよ」
そう言ってまたおばさんは笑った。
行儀という言葉を辞書で引くと「1.作法にかなうかどうかという点から見た立ち居
振る舞い。2.おこない。しわざ。したこと。」(大辞林より)とある。作法にかな
うという観点は、あまりにも古臭いと思うかも知れないが、人間が暮らしていくため
に必要なルールの一つが作法であるなら、それにかなう行動を取ることを子どもに教
えて行くことは、古い新しいということではなく、普遍的に必要な事だと思う。周り
の人から、「古臭い母親だ」と思われるかもしれないが、多分私はこれから先も、子
どもに「行儀が悪い」と叱りつづけていくと思う。
2004 05/19 08:41
Category : 日記
小学校六年生の息子は、最近反抗期を迎えたらしい。私がなにか言うとすぐに反発し
たり、怒ったりする。(年令的にもそろそろ思春期だし、仕方ないか)とも思うのだ
が、それにしても感情の起伏が不安定な気がした。
内容的にはたわいも無いことなのだが、なにか少しでも否定するようなことを言う
と、急に怒鳴ったり、怒って横を向いてふてくされたり、横目で睨み付けたりしてく
る。その様子を見ていると、息子がいわゆる「すぐ切れる子」になってしまったよう
で、私はとても不安だった。最近テレビなどでよく、「すぐ切れる子とか、虐待をし
てしまう母親などは、子どもの頃の愛情の注がれ方が間違っていた事が多い」と耳に
する。今育児をしている母親達に、「あなたは自分の子どもに、正しい愛情の注ぎ方
をしていますか?」と尋ねたら、自信を持って「はい」と答えられる人は多くないか
もしれない。私自身も、そうだと思う。しかし、それほど間違った育て方や愛情の注
ぎ方をして来たつもりもなかった。
息子の態度の急変が、ただの年令的なことからだけ来ているのならいいが、もし他に
原因があるようなら…と、もう一度息子のことや家庭の中のことを見直して見ること
にした。そんな折、私の親友から家に遊びに来ないかと誘いを受けた。偶然その日
は、娘と夫は、娘の習い事で出掛ける予定になっていたので、息子と私の二人で行く
事にした。友人は、息子が保育園の頃から知っているのだが、ここのところ反抗期を
迎えていることは話してなかったので、一応その話をしておく事にした。
友人の家には、息子より2歳下の男の子がいる。息子と同じ習い事をしている、息子
の同期でもあり、二人は前から遊び相手でもあった。他にも数人の同期の子が遊びに
来ていたのだが、息子はその輪に入らずに大人達の所へ来て、たわいない会話に加わ
る事が多かった。時々、呼ばれるとまた他の子達の所に行くのだが、すぐにまた戻っ
て来ていた。それでも、みんなと機嫌よく話をして楽しく過ごして帰って来た。
翌日、その友人から私のところに電話があった。彼女は、息子が保育園の頃からよく
知っている。その彼女の目から見た息子の印象を話してくれた。それは、息子は私に
構ってもらいたがっているのではないか?という事だった。「お姉ちゃんにばっかり
かかりっきりなんじゃないの?」と友人は言った。言われてみれば、思い当たること
がある。娘が中学生になり、部活や勉強で忙しくなった。朝連にいくために、どんな
に朝早い時間に起きる時も、娘はきちんと一人で起きて身支度をして出掛けていき、
夕方までクタクタになるまで練習をして帰ってくる。それでも、夕飯の手伝いをして
くれたり、お風呂の掃除をしてくれたりする。そして、夕飯の後は、宿題などをやる
ために、夜遅くまで机に向っていることも良くあるようになった。部活は大変なのだ
と思うが、「自分で好きでやってるのだから」と頑張っている娘をみていると、つい
世話を焼いてやりたくなる。逆に言えば、息子に対して「お姉ちゃんが勉強している
のだから静かにしなさい」というような言葉を、無意識のうちに言う事が多かったの
だろう。
息子からしてみれば、2歳違いでいつも一緒にワイワイやって来た姉が、中学に入っ
てから、急にしっかりして大人びてしまったことで、自分だけ取り残されたような気
持ちだったかもしれない。そのうえ私には「お姉ちゃんの邪魔をするような事をして
はいけない」とたしなめられるのだから、気分が良いはずがない。私が何気なくして
いた事が、息子のことをないがしろにしているように思えたのかもしれないのだ。
その日私は、帰宅した息子と少し話をしてみた。話しと言っても、息子の学校のこと
や友達と何をして遊んでいるかなど、息子の話しを聞くといった感じだった。息子は
はじめ戸惑っているようだったが、そのうち色々と話し始めた。好きなカードゲーム
の話しや、誰がどのゲームが得意だとか、誰の足が速いとか…。一通り話を聞き終え
た私は、「ねえ、早く中学生になりたい?」と聞いた。すると息子は「お姉ちゃん部
活や勉強大変そうで、遊ぶ時間なさそうだしね。まだ小学生がいいかな?」と言っ
た。その言葉を聞いて「そうだね、まだ小学生がいいかもね。焦らなくてもいいか
ら、ゆっくり大人になればいいよ」と私が言うと。息子は、ちらっとこちらを横目で
見ながら「そうだね」と、一言答えた。息子の本当の反抗期は、もう少し先かもしれ
ない。
たり、怒ったりする。(年令的にもそろそろ思春期だし、仕方ないか)とも思うのだ
が、それにしても感情の起伏が不安定な気がした。
内容的にはたわいも無いことなのだが、なにか少しでも否定するようなことを言う
と、急に怒鳴ったり、怒って横を向いてふてくされたり、横目で睨み付けたりしてく
る。その様子を見ていると、息子がいわゆる「すぐ切れる子」になってしまったよう
で、私はとても不安だった。最近テレビなどでよく、「すぐ切れる子とか、虐待をし
てしまう母親などは、子どもの頃の愛情の注がれ方が間違っていた事が多い」と耳に
する。今育児をしている母親達に、「あなたは自分の子どもに、正しい愛情の注ぎ方
をしていますか?」と尋ねたら、自信を持って「はい」と答えられる人は多くないか
もしれない。私自身も、そうだと思う。しかし、それほど間違った育て方や愛情の注
ぎ方をして来たつもりもなかった。
息子の態度の急変が、ただの年令的なことからだけ来ているのならいいが、もし他に
原因があるようなら…と、もう一度息子のことや家庭の中のことを見直して見ること
にした。そんな折、私の親友から家に遊びに来ないかと誘いを受けた。偶然その日
は、娘と夫は、娘の習い事で出掛ける予定になっていたので、息子と私の二人で行く
事にした。友人は、息子が保育園の頃から知っているのだが、ここのところ反抗期を
迎えていることは話してなかったので、一応その話をしておく事にした。
友人の家には、息子より2歳下の男の子がいる。息子と同じ習い事をしている、息子
の同期でもあり、二人は前から遊び相手でもあった。他にも数人の同期の子が遊びに
来ていたのだが、息子はその輪に入らずに大人達の所へ来て、たわいない会話に加わ
る事が多かった。時々、呼ばれるとまた他の子達の所に行くのだが、すぐにまた戻っ
て来ていた。それでも、みんなと機嫌よく話をして楽しく過ごして帰って来た。
翌日、その友人から私のところに電話があった。彼女は、息子が保育園の頃からよく
知っている。その彼女の目から見た息子の印象を話してくれた。それは、息子は私に
構ってもらいたがっているのではないか?という事だった。「お姉ちゃんにばっかり
かかりっきりなんじゃないの?」と友人は言った。言われてみれば、思い当たること
がある。娘が中学生になり、部活や勉強で忙しくなった。朝連にいくために、どんな
に朝早い時間に起きる時も、娘はきちんと一人で起きて身支度をして出掛けていき、
夕方までクタクタになるまで練習をして帰ってくる。それでも、夕飯の手伝いをして
くれたり、お風呂の掃除をしてくれたりする。そして、夕飯の後は、宿題などをやる
ために、夜遅くまで机に向っていることも良くあるようになった。部活は大変なのだ
と思うが、「自分で好きでやってるのだから」と頑張っている娘をみていると、つい
世話を焼いてやりたくなる。逆に言えば、息子に対して「お姉ちゃんが勉強している
のだから静かにしなさい」というような言葉を、無意識のうちに言う事が多かったの
だろう。
息子からしてみれば、2歳違いでいつも一緒にワイワイやって来た姉が、中学に入っ
てから、急にしっかりして大人びてしまったことで、自分だけ取り残されたような気
持ちだったかもしれない。そのうえ私には「お姉ちゃんの邪魔をするような事をして
はいけない」とたしなめられるのだから、気分が良いはずがない。私が何気なくして
いた事が、息子のことをないがしろにしているように思えたのかもしれないのだ。
その日私は、帰宅した息子と少し話をしてみた。話しと言っても、息子の学校のこと
や友達と何をして遊んでいるかなど、息子の話しを聞くといった感じだった。息子は
はじめ戸惑っているようだったが、そのうち色々と話し始めた。好きなカードゲーム
の話しや、誰がどのゲームが得意だとか、誰の足が速いとか…。一通り話を聞き終え
た私は、「ねえ、早く中学生になりたい?」と聞いた。すると息子は「お姉ちゃん部
活や勉強大変そうで、遊ぶ時間なさそうだしね。まだ小学生がいいかな?」と言っ
た。その言葉を聞いて「そうだね、まだ小学生がいいかもね。焦らなくてもいいか
ら、ゆっくり大人になればいいよ」と私が言うと。息子は、ちらっとこちらを横目で
見ながら「そうだね」と、一言答えた。息子の本当の反抗期は、もう少し先かもしれ
ない。
2004 05/16 21:15
Category : 日記
今日、千葉県の市原市にある、新東京サーキットで、フレッシュマンカートレースRd.3が行われました。
中学2年生の娘は、Sクラスにエントリしました。
朝から雨が降り、午前中はウエットな路面の中でのタイムアタックで、9位/23台でした。
しかし、途中で雨が止み、午後には完全に路面はドライに…。
午後1時過ぎから行われた予選では、所々濡れた路面が残る、ハーフウエットの中。スタートの混乱に巻き込まれ、一時順位を少し落としましたが、10位まで上がったところでフィニッシュ。
そして、路面は完全に乾いた状態での決勝では、3台でのバトルに競り勝ち、5位でフィニュできました。
トロフィーと副賞をいただいてきました。
中学2年生の娘は、Sクラスにエントリしました。
朝から雨が降り、午前中はウエットな路面の中でのタイムアタックで、9位/23台でした。
しかし、途中で雨が止み、午後には完全に路面はドライに…。
午後1時過ぎから行われた予選では、所々濡れた路面が残る、ハーフウエットの中。スタートの混乱に巻き込まれ、一時順位を少し落としましたが、10位まで上がったところでフィニッシュ。
そして、路面は完全に乾いた状態での決勝では、3台でのバトルに競り勝ち、5位でフィニュできました。
トロフィーと副賞をいただいてきました。
2004 05/14 20:38
Category : 日記
16日に、千葉県の市原市の新東京サーキットで、フレッシュマンカートレースのRD.3が開催されるため。
明日練習に行ってきます。
娘の前回のレースより、もう3ヶ月も経ってしまいました。
その間、約2ヶ月半の間練習に行く事ができず、にいましたが。
GW前から練習を再開しました。
前回2位に入ったことで、
娘は「みっともない走りはできない」と
部活で帰宅時間が遅いので、
宿題や勉強の為に夕飯の後夜遅くまで机に向い
また翌日、部活の朝連の為に早起きをするという生活が続いて、クタクタになりながらも、
「私は、コツコツとやらないと上手にできないタイプだからね」と娘はそういって、
カートの練習も頑張っていました。
だから、順位という結果ではなく
娘の走りをしっかりと見届けて来たいと思います。
明日練習に行ってきます。
娘の前回のレースより、もう3ヶ月も経ってしまいました。
その間、約2ヶ月半の間練習に行く事ができず、にいましたが。
GW前から練習を再開しました。
前回2位に入ったことで、
娘は「みっともない走りはできない」と
部活で帰宅時間が遅いので、
宿題や勉強の為に夕飯の後夜遅くまで机に向い
また翌日、部活の朝連の為に早起きをするという生活が続いて、クタクタになりながらも、
「私は、コツコツとやらないと上手にできないタイプだからね」と娘はそういって、
カートの練習も頑張っていました。
だから、順位という結果ではなく
娘の走りをしっかりと見届けて来たいと思います。
2004 05/12 12:17
Category : 日記
辞書で「責任」と引いてみると。自分が引き受けて行わなければならない任務。義
務。自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(三省堂
‐大辞林より‐)とある。イラクで拘束されてしまった方々に問われている「自己責
任」とは、後者にあたると思う。ただ、今回のケースの場合は、その方々に責任を問
うべきなのかどうか自体が問題なのだが。一般的には、誰かが何かをしたり、事が起
きた時に、それに対して何かしなくてはいけない事、それがその人の責任だと思う。
こんな風に固い文章で書くと、「責任」とは大人のだけに当てはまる事のように思え
る。しかし、本当は、それぞれの年令や能力に応じて、取れる範囲で責任を取るべき
なのではないかと思う。つまり、子どもだから騒いでしまったり壊してしまっても仕
方がないと考えるのではなく、子どもでもその事に対して注意された段階で「静かに
する」とか「謝る」という子どもなりの責任を取らせるべきだと思うのだ。そして、
子どもが取った責任では足りないと思われる部分を、親なり監督者が補足するべきな
のだと思う。
そうして、その子どもの大きさや能力に応じた責任を持たせ、対処させて行くこと
で、子どもの中にも、責任に対しての認識が産まれ、その責任を果たすことで自信が
生まれていくのだと思う。
六本木ヒルズで先日起きた事故では、この部分でビルの所有者とドアを作ったメー
カーの間で、どちらが責任を取るべきなのか?で発言が食い違いを見せていた。ま
た、オリーブニュースの読者から「メーカーや森ビルだけではなく、親の管理責任を
問わないのはおかしい」とお便りも届けられた。確かに、マスコミは、森ビルやメー
カーの責任や、国土交通省までもが責任を追及されている状態で、子どもの保護者で
あり、その場に居合わせた母親の責任が追求されないはずがない。
事故にあってしまった少年は、事件当日初め母親と手をつないでいたが、回転ドア近
くで手を離した。母親の少し先を小走りで屋外からドア内に入ろうとして、ドアの側
面ガラスと固定のステンレス製の枠との間に頭を挟まれた。ドアの回転は止まった。
(3月26日付 asahi.comより)慣れない場所で、迷子になるなどの危険を回避するた
めに、はじめはきちんと母親と手を繋いでいた。しかし、回転ドアの物珍しさについ
手を離してしまい、事故に遭ってしまったのだろう。
ほんの一瞬の気のゆるみだったのだと思う。しかし、そこで「手繋いでいる」という
責任を親子共に怠ってしまったために、わずか6歳の少年は命と引き換えに、自分の
責任と、母親が追うべき責任までも償う事になってしまったのではないだろうか。
こうして見てみると、母親にも事故に遭った少年にも責任の一端があることは明白
だ。しかし、それを母親に対して追求する事は、第3者である私達にはできないと思
う。なぜなら、責任の追及とはその人の行為によって直接的に利害関係のある人だけ
行う事ができる行為だと思われるからだ。しかし、あの回転ドアの事故のように大き
な事故の責任の所在を明らかにするためには、当然裁判をすることになるだろう。そ
うなれば、当然ビルの管理者や回転ドアの製造メーカーと共に、現場に居合わせた母
親の保護者としての管理責任や事故に遭ってしまった少年の過失も審議されることに
なる。
我が子を目の前で失ってしまった瞬間のことを、何度となく繰り返し検証される場に
立ち会う事になり、「あの瞬間、自分が手を離さずにいれば」と、強い後悔の念に駆
られる彼女の心境を思うと、私はいたたまれない気がする。
だとしたら、私達母親にできることは、彼女のような悲劇が今後繰り返されることが
ないように、安全装置やセンサーに任せずに、自分の手で子ども達の命を守るように
することだろう。つまり、人が多い場所やエスカレータなどがある場所では、絶対に
子どもから手を離さないようにし、子どもにもその意味やその子が追うべき責任をき
ちんと説明し、それを理解して行動出来るように躾ていくことだと、私は思う。
務。自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(三省堂
‐大辞林より‐)とある。イラクで拘束されてしまった方々に問われている「自己責
任」とは、後者にあたると思う。ただ、今回のケースの場合は、その方々に責任を問
うべきなのかどうか自体が問題なのだが。一般的には、誰かが何かをしたり、事が起
きた時に、それに対して何かしなくてはいけない事、それがその人の責任だと思う。
こんな風に固い文章で書くと、「責任」とは大人のだけに当てはまる事のように思え
る。しかし、本当は、それぞれの年令や能力に応じて、取れる範囲で責任を取るべき
なのではないかと思う。つまり、子どもだから騒いでしまったり壊してしまっても仕
方がないと考えるのではなく、子どもでもその事に対して注意された段階で「静かに
する」とか「謝る」という子どもなりの責任を取らせるべきだと思うのだ。そして、
子どもが取った責任では足りないと思われる部分を、親なり監督者が補足するべきな
のだと思う。
そうして、その子どもの大きさや能力に応じた責任を持たせ、対処させて行くこと
で、子どもの中にも、責任に対しての認識が産まれ、その責任を果たすことで自信が
生まれていくのだと思う。
六本木ヒルズで先日起きた事故では、この部分でビルの所有者とドアを作ったメー
カーの間で、どちらが責任を取るべきなのか?で発言が食い違いを見せていた。ま
た、オリーブニュースの読者から「メーカーや森ビルだけではなく、親の管理責任を
問わないのはおかしい」とお便りも届けられた。確かに、マスコミは、森ビルやメー
カーの責任や、国土交通省までもが責任を追及されている状態で、子どもの保護者で
あり、その場に居合わせた母親の責任が追求されないはずがない。
事故にあってしまった少年は、事件当日初め母親と手をつないでいたが、回転ドア近
くで手を離した。母親の少し先を小走りで屋外からドア内に入ろうとして、ドアの側
面ガラスと固定のステンレス製の枠との間に頭を挟まれた。ドアの回転は止まった。
(3月26日付 asahi.comより)慣れない場所で、迷子になるなどの危険を回避するた
めに、はじめはきちんと母親と手を繋いでいた。しかし、回転ドアの物珍しさについ
手を離してしまい、事故に遭ってしまったのだろう。
ほんの一瞬の気のゆるみだったのだと思う。しかし、そこで「手繋いでいる」という
責任を親子共に怠ってしまったために、わずか6歳の少年は命と引き換えに、自分の
責任と、母親が追うべき責任までも償う事になってしまったのではないだろうか。
こうして見てみると、母親にも事故に遭った少年にも責任の一端があることは明白
だ。しかし、それを母親に対して追求する事は、第3者である私達にはできないと思
う。なぜなら、責任の追及とはその人の行為によって直接的に利害関係のある人だけ
行う事ができる行為だと思われるからだ。しかし、あの回転ドアの事故のように大き
な事故の責任の所在を明らかにするためには、当然裁判をすることになるだろう。そ
うなれば、当然ビルの管理者や回転ドアの製造メーカーと共に、現場に居合わせた母
親の保護者としての管理責任や事故に遭ってしまった少年の過失も審議されることに
なる。
我が子を目の前で失ってしまった瞬間のことを、何度となく繰り返し検証される場に
立ち会う事になり、「あの瞬間、自分が手を離さずにいれば」と、強い後悔の念に駆
られる彼女の心境を思うと、私はいたたまれない気がする。
だとしたら、私達母親にできることは、彼女のような悲劇が今後繰り返されることが
ないように、安全装置やセンサーに任せずに、自分の手で子ども達の命を守るように
することだろう。つまり、人が多い場所やエスカレータなどがある場所では、絶対に
子どもから手を離さないようにし、子どもにもその意味やその子が追うべき責任をき
ちんと説明し、それを理解して行動出来るように躾ていくことだと、私は思う。