2002 11/13 13:32
Category : 日記
JR川崎駅にほど近い街で私は育った。小さな商店街を一歩入ると、自転車も通れないような路地裏のあちこちには小さな工場があり、長屋やアパートがひしめくよう
に建っている街だった。
我家は、6畳と8畳そして3畳の板間、狭い台所とお風呂という小さな平屋だったが、下町には珍しく庭があり、その庭に面して縁側があった。そう、最近ではめっきりお目にかからなくなってしまった縁側があった。
アルミサッシなど言うものは殆ど普及していない頃に建てられた古い家だったので、窓はみな立て付けの悪い木の枠のガラス戸で、隙間風がかなり酷かったが、南側の庭に面した縁側には、いつも燦燦と陽がさし込んでいて、とても明るく温かく、私はいつもその縁側で遊んでいた。
近所の人や友達が遊びに来るのも玄関からではなくその縁側からだった。
母はよく、弟にその縁側の日溜りのなかでおっぱいを上げていて、私はそれを隣で見ているのが大好きだった。
私が幼稚園に上がる頃、家は建てなおされてしまい、縁側もなくなってしまった。つまり私がその家に住んでいたのはほんの数年なのだが、あの縁側の風景は、今でも私の
脳裏に鮮やかに残っている。
に建っている街だった。
我家は、6畳と8畳そして3畳の板間、狭い台所とお風呂という小さな平屋だったが、下町には珍しく庭があり、その庭に面して縁側があった。そう、最近ではめっきりお目にかからなくなってしまった縁側があった。
アルミサッシなど言うものは殆ど普及していない頃に建てられた古い家だったので、窓はみな立て付けの悪い木の枠のガラス戸で、隙間風がかなり酷かったが、南側の庭に面した縁側には、いつも燦燦と陽がさし込んでいて、とても明るく温かく、私はいつもその縁側で遊んでいた。
近所の人や友達が遊びに来るのも玄関からではなくその縁側からだった。
母はよく、弟にその縁側の日溜りのなかでおっぱいを上げていて、私はそれを隣で見ているのが大好きだった。
私が幼稚園に上がる頃、家は建てなおされてしまい、縁側もなくなってしまった。つまり私がその家に住んでいたのはほんの数年なのだが、あの縁側の風景は、今でも私の
脳裏に鮮やかに残っている。