「ヒカルイマイはすごかった」杉本清さん、思い出の東京優駿を語る
ヒカルイマイ(1971年)は逆に、どん尻から行って、直線では大外から前の馬(22頭)をごぼう抜き。ペースも速くなくて、あの時は「すごいなぁ」。それだけやったね。あんだけの追い込みは、いまだかつてなかったよ。黄色の帽子で(5)-(5)の馬券だったのは忘れもしない。5千円いくら(配当が)ついたから。

 (23歳7カ月で)最年少優勝を飾った田島良保ジョッキーがレース後、本来なら競馬博物館に飾るために持ち帰るムチを、スタンドに投げ入れてしまった。それほど興奮しとったんやろねえ。でも、この馬が本当に「すごい」と思うようになったのは、その後のこと。関西テレビで「ダービー馬を追いかける」という夏取材で、驚くことがいろいろわかったからね。

 生い立ちを(北海道に)探りに行って「この辺りでダービー馬が出たんだけど」と聞いても、誰も知らない。どこの牧場の馬かと思ったら、普通の農家の馬やというのがわかった。それで、そのおじいさんが「取材は絶対に受けつけない」って言うんだよ。でも、「一杯飲めや。飲んだら話してやる」と言われて、プロデューサーもカメラマンもダメ。アナウンサーなら飲めるということになって、その焼酎を飲んだとたんに(アルコール度が高く)天井が回った(笑)。それで、ようやく話してくれたんやけどね。

 母がサラ系のセイシュンという馬で、放牧地もなく厩舎(きゅうしゃ)はボロボロ。冬はすき間から降る雪を背負って寝ていたというぐらいで、肋骨(ろっこつ)が陥没したのもいつかわからない。ほったらかしだったから。さらに「人間が飲んで悪くないから」という理由で、牛乳を飲ませて育てたと言うの。セリでも売れず、馬を引き取る回収車が昼から来るというその当日の朝、なんと仲買人が現れて買い取っていった。それが、ダービー馬になるんだから、信じられないね。

 訓練していないし、何かを乗せたことはない。田島騎手も「カーブで曲がろうとしないし、初めて乗ったときは調教がメチャクチャ怖かった」と言ってたから。その田島はダービーで勝った後、「オレはダービーに乗ったんやない。ヒカルイマイに乗った」と名言を残したけど、その時はそこまで馬の特徴をつかんでいたんやろうね。

 今は18頭だけど、そのころは28頭で、見てても壮観だったね。頭数も多い分、個性的な馬も多かった。(ともに元名騎手だった)岡部幸雄さんや河内洋さん(現調教師)も「ダービーだけは28頭でやらないかん」と言ってるけど、それは同感だね。

 ■杉本清(すぎもと・きよし)1937年2月19日生まれ、奈良県出身。61年関西テレビ入社後、アナウンサーとして翌62年から競馬実況に携わり、数々の名せりふで歴史に残る名レースを語ってきた“競馬実況の神様”。97年に定年退職後も、フリーアナウンサー、タレントとして、テレビ、CM出演を含めて各方面で活躍している。

編集 ユッコチン : 9歳の春タマタマ見ていたテレビ画面に釘ずけになり、ゴールの瞬間はなぜか泣いていた。私の馬LOVEの始まり
編集 かぁ坊 : ヒカルイマイは三冠馬は何頭かいますがそれらをまとめて負かす可能性を秘めていた馬だと思います。
編集 岸田正美 : ヒカルイマイで競馬にはまった
編集 ヒカルイマイのファン : 人間言えば、豊臣秀吉みたいなもんでしょう。馬の天下をとった。すごい馬でっす。
編集 bach : 還暦を迎えた私が過去最高の名馬と言えばヒカルイマイだと思います。柔らかく凄いフットワ-クで最後は勝ちきりました。大外一気に抜け出すとはまさにヒカルイマイのことでしょう。それ以後幾多の有名になった馬を見てきましたがヒカルイマイがNO1だと思っています。