2009年05月の記事
2009 05/19 11:42
Category : 鴫山城
資料館に隣接する丸山公園内に南山義民碑があります。8代将軍徳川吉宗の時代、南山御蔵入地(会津・大沼郡の天領)で、1720(享保五)年から3年間、年貢減免・江戸廻米の停止・郷頭制の廃止などを要求して百姓一揆が行われました。これを南山御蔵入騒動といいます。この一揆は天領における最初の強訴で、幕府に深刻な打撃を与えましたが、農民6名が処刑され、さらし首となりました。この義民碑は犠牲となった6名を弔うため、1928(昭和三)年に建立されました。義民碑の傍らには、土井晩翠が訪れとときの歌碑「めにみえぬ神秘の力われを引き 義民の墓にけふ詣でしむ」が立っています
2009 05/19 06:52
Category : 鴫山城
鴫山城
しぎやま-じょう
南会津会津町田島の愛宕山にあった中世の城郭。
南山長江荘の領主長沼義秀によって、南北朝末より応永にかけての時期に築かれたと推定されている。
長沼氏最後の城主盛秀は、天正17年(1589)会津へ侵攻して葦名氏を滅ぼした伊達政宗に恭順し、伊南の地にこもった河原田氏攻撃の先鋒となったが、主従一丸で火の玉となった河原田軍の猛反撃にあい戦死した。
翌18年の豊臣秀吉の「奥羽仕置」により伊達氏が北に去ると、盛秀の遺児3人も政宗に従って仙台に移っている。
その後、城主は蒲生氏・上杉氏・再蒲生氏と変遷し、加藤氏が支配していた寛永年間末(1640年代)までに廃城となったとみられる。
城跡は町を一望できる愛宕山(749m)にあり、山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を巧みに利用し、土塁・門・櫓・空堀・郭などが構築された跡が残る。
ことに愛宕神社参道に残る「大門」跡の石垣は、西日本の城郭建築で発達した穴太(あのう)積みと呼ばれる技術をもって作られており、近年修復されてその威容を誇っている。
昭和52年から4年間にわたって発掘調査が実施され、中世の城郭から近世の城郭への移行期の遺構を含み、とくに近世城郭の先駆的形態が随所にみられることが判明した。
15世紀中ごろ以前の形態は不明なものの、史料と発掘調査によって、15世紀中ごろには山上の要害と山下の居館から構成された根小屋式山城で、鴫山城とは山上の要害をさすものであったと考えられる。
16世紀には会津の覇者となった葦名氏との対立から本格的な築城が進められ、この時期に現在の鴫山城の原型ができた。
本格的な城郭としての完成は、上杉景勝が徳川家康の進攻に備えてなされた臨戦態勢時になされたものと思われる。
平成6年に旧田島町が、城跡を公園として整備する「城址活用基本計画」を策定したが、財政難などで実現に至っていない。
城を失って約400年。鴫山城の復活を望む住民は少なくないという。(会津事典より)
しぎやま-じょう
南会津会津町田島の愛宕山にあった中世の城郭。
南山長江荘の領主長沼義秀によって、南北朝末より応永にかけての時期に築かれたと推定されている。
長沼氏最後の城主盛秀は、天正17年(1589)会津へ侵攻して葦名氏を滅ぼした伊達政宗に恭順し、伊南の地にこもった河原田氏攻撃の先鋒となったが、主従一丸で火の玉となった河原田軍の猛反撃にあい戦死した。
翌18年の豊臣秀吉の「奥羽仕置」により伊達氏が北に去ると、盛秀の遺児3人も政宗に従って仙台に移っている。
その後、城主は蒲生氏・上杉氏・再蒲生氏と変遷し、加藤氏が支配していた寛永年間末(1640年代)までに廃城となったとみられる。
城跡は町を一望できる愛宕山(749m)にあり、山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を巧みに利用し、土塁・門・櫓・空堀・郭などが構築された跡が残る。
ことに愛宕神社参道に残る「大門」跡の石垣は、西日本の城郭建築で発達した穴太(あのう)積みと呼ばれる技術をもって作られており、近年修復されてその威容を誇っている。
昭和52年から4年間にわたって発掘調査が実施され、中世の城郭から近世の城郭への移行期の遺構を含み、とくに近世城郭の先駆的形態が随所にみられることが判明した。
15世紀中ごろ以前の形態は不明なものの、史料と発掘調査によって、15世紀中ごろには山上の要害と山下の居館から構成された根小屋式山城で、鴫山城とは山上の要害をさすものであったと考えられる。
16世紀には会津の覇者となった葦名氏との対立から本格的な築城が進められ、この時期に現在の鴫山城の原型ができた。
本格的な城郭としての完成は、上杉景勝が徳川家康の進攻に備えてなされた臨戦態勢時になされたものと思われる。
平成6年に旧田島町が、城跡を公園として整備する「城址活用基本計画」を策定したが、財政難などで実現に至っていない。
城を失って約400年。鴫山城の復活を望む住民は少なくないという。(会津事典より)