2002 10/01 15:57
Category : 日記
去年だったか、父が「ハイジ」全巻のビデオを買ってくれ(っちゅーか、自分が見たかったらしい)、子供達と一緒に何度も見た。
自分が小さい頃見た時とはまた違った見方ができ、何度見ても面白い。
はっきり言って現代、ハイジのような性格の子供は多分いないだろうし、いたとしても恐らくいじめの的になるような気がする。変な社会だ。
純粋で素直で、ポジティブな子供は、一種「大人が理想とする子供像」だろう。
一方、ロッテンマイヤー女史は「現代の母親」の象徴かもしれない。
作中では「クララのお世話・教育係」だが、役割は母親的なもの。しかし、母親の厳しい部分が浮き彫りにされている。
しかし、その根底にあるものは仕事以上にクララを大事に思う愛情である。
愛情故に、クララを大事にしすぎ、お屋敷から外に出さず、厳しい教育をしてしまう。
ハイジが変えられなかった大人の一人でもある。
一方、母親のような包容力や暖かい愛情の象徴として登場する「クララのおばあさま」。
おばあさまは、子供にとって何が一番大事なのかロッテンマイヤー女史、つまり「現代の母親」にわかってもらいたい、と願う。
時にはクララを外に連れ出して、具合を悪くさせてしまうが、当のクララは逆に「もっと外で遊びたい」と願うようになる。
クララがアルプスに行く時についてきたロッテンマイヤー女史は、ハイジのおじいさんに怒鳴られたり諭されたりするが、なかなか素直に受け入れない。しかし、クララのピンチにはプライドを捨てる。そこで少しは、変わったのかもしれない。
歩けるようになり、精神的にも大きく成長して戻ったクララの歩行訓練をしながら、
「頑張らないと来年もアルプスに行けませんよ」と叱咤激励する。
言い方は決して優しくはないが、愛情の形が少し変わったのだ。
現代の母親は、根底は愛情かもしれないが時に、子供をがんじがらめにしがちなのかもしれない。勉強も大事だが、人間にとって何が一番大事なのか。ハイジがクララのお屋敷で、夢遊病になってしまったのはなぜか、あれもダメこれもダメ、と抑圧していては、子供はだめになるよ、というメッセージだろう。
子供の頃は「ロッテンマイヤーさんって、嫌な人!」と思っていたが、いざ自分が母親になってみるとまるで、自分の欠点を暴かれているようで身につまされる。
親近感すら覚える。
おばあさんは一見「理想の母親」っぽいが、決してそうでもない。
おばあさんは飽くまでもおばあさんで、「理想のおばあさん」像だろう。
いつも一緒にいる「養育者」とは、ちょっと役割が違うような気がする。
それと、やはりハイジとクララの友情の形も、理想だろう。
「もう立てない、私はできない」と嘆くクララに「クララのバカ!!弱虫!!」というハイジは、本当にクララの為を思っているからこそ、なのだ。
今はそんなこと、言うだろうか?
言ったが最後、絶交されそうだ。
「私痩せたいけど、つい食べちゃうの〜」という友人に向かって
「いいよいいよ、今のままで。食べちゃえ!」というのは友情ではない、よね。
「ハイジ」が30年以上前に作られながら、いまだに支持されているのは、現代への警鐘と環境やあらゆる愛情の理想・憧れが盛りだくさんだからだと思う。
誰でも一度は、あの「アルムの山小屋で藁のベットに寝て、朝日と共に起き、もみの木の歌を聴き、指笛を吹き、あのとろ〜りしたチーズを食べたい」と思った事があるのではないか。
私は、アルプスのあの斜面を毎日走りまわっているペーターとハイジの肺活量を測ってみたい。
自分が小さい頃見た時とはまた違った見方ができ、何度見ても面白い。
はっきり言って現代、ハイジのような性格の子供は多分いないだろうし、いたとしても恐らくいじめの的になるような気がする。変な社会だ。
純粋で素直で、ポジティブな子供は、一種「大人が理想とする子供像」だろう。
一方、ロッテンマイヤー女史は「現代の母親」の象徴かもしれない。
作中では「クララのお世話・教育係」だが、役割は母親的なもの。しかし、母親の厳しい部分が浮き彫りにされている。
しかし、その根底にあるものは仕事以上にクララを大事に思う愛情である。
愛情故に、クララを大事にしすぎ、お屋敷から外に出さず、厳しい教育をしてしまう。
ハイジが変えられなかった大人の一人でもある。
一方、母親のような包容力や暖かい愛情の象徴として登場する「クララのおばあさま」。
おばあさまは、子供にとって何が一番大事なのかロッテンマイヤー女史、つまり「現代の母親」にわかってもらいたい、と願う。
時にはクララを外に連れ出して、具合を悪くさせてしまうが、当のクララは逆に「もっと外で遊びたい」と願うようになる。
クララがアルプスに行く時についてきたロッテンマイヤー女史は、ハイジのおじいさんに怒鳴られたり諭されたりするが、なかなか素直に受け入れない。しかし、クララのピンチにはプライドを捨てる。そこで少しは、変わったのかもしれない。
歩けるようになり、精神的にも大きく成長して戻ったクララの歩行訓練をしながら、
「頑張らないと来年もアルプスに行けませんよ」と叱咤激励する。
言い方は決して優しくはないが、愛情の形が少し変わったのだ。
現代の母親は、根底は愛情かもしれないが時に、子供をがんじがらめにしがちなのかもしれない。勉強も大事だが、人間にとって何が一番大事なのか。ハイジがクララのお屋敷で、夢遊病になってしまったのはなぜか、あれもダメこれもダメ、と抑圧していては、子供はだめになるよ、というメッセージだろう。
子供の頃は「ロッテンマイヤーさんって、嫌な人!」と思っていたが、いざ自分が母親になってみるとまるで、自分の欠点を暴かれているようで身につまされる。
親近感すら覚える。
おばあさんは一見「理想の母親」っぽいが、決してそうでもない。
おばあさんは飽くまでもおばあさんで、「理想のおばあさん」像だろう。
いつも一緒にいる「養育者」とは、ちょっと役割が違うような気がする。
それと、やはりハイジとクララの友情の形も、理想だろう。
「もう立てない、私はできない」と嘆くクララに「クララのバカ!!弱虫!!」というハイジは、本当にクララの為を思っているからこそ、なのだ。
今はそんなこと、言うだろうか?
言ったが最後、絶交されそうだ。
「私痩せたいけど、つい食べちゃうの〜」という友人に向かって
「いいよいいよ、今のままで。食べちゃえ!」というのは友情ではない、よね。
「ハイジ」が30年以上前に作られながら、いまだに支持されているのは、現代への警鐘と環境やあらゆる愛情の理想・憧れが盛りだくさんだからだと思う。
誰でも一度は、あの「アルムの山小屋で藁のベットに寝て、朝日と共に起き、もみの木の歌を聴き、指笛を吹き、あのとろ〜りしたチーズを食べたい」と思った事があるのではないか。
私は、アルプスのあの斜面を毎日走りまわっているペーターとハイジの肺活量を測ってみたい。