つい先日、東京都心で中国人観光客が店で買った大量のマスクを抱えて歩くのを見て、武漢という地名が頭をよぎった。
電車で中国語が聞こえると、どの地域から来た一行かと考えてしまう自分がいる。
武漢への渡航歴のない日本人男性が感染したことが新たに明らかになった。現地に向けて日本政府のチャーター機も飛び立った。日ごとに増える感染者数を見ていると、17年前の「謎の肺炎」SARSの悪夢を思い出す。
広東省から広まり、隣の香港では病院で集団感染が起きた。「感染予防には爆竹を鳴らせ」「緑豆のスープを飲め」。根拠のない情報が飛び交った。香港に駐在した数年前、そんな流言の数々を昔話として聞いた。
いま世界を不安にさせている新型肺炎は、いわばSARSの親戚でもある。今回も中国では案の定、爆竹のうわさが息を吹き返した。「武漢から来た観光客が関西空港で逃げ出した」という虚報も日中両国で拡散し、さすがにこれは航空当局が全否定している。
ある研究調査によれば、SARSに見舞われた当時の香港では、心配から不安をへて、恐怖、恐怖へと社会心理が変化した。予防に聞くという情報に振り回され、大人たちが家にこもり、繁華街が廃墟のように静まり返る。ふだん冷静な人々も含めて社会全体が恐怖を来した結果だという。
ウイルスがデマを引き連れてやすやすと国境を越える時代である。不安なこの時期こそ、自分の胸に手を当てて冷静でいるかどうか点検が欠かせない。

 天声人語より