俳人の酒井弘司さんに〈宇宙さみし一月のコーヒー店〉の句がある。
寒い日、人のまばらな店で静かにコーヒーを飲むのはさみしいような、いやむしろ贅沢なような。物思いにふける対象が宇宙にまで及ぶとすれば、楽しくもある。
この国の暮らしには、これほどコーヒーが入りこんでのはいつからだろう。まちを歩けばチェーンの店がすぐ目に入る、100円のコンビニのコーヒーもある。当方も、一杯も口にしない日はどこか落ち着かない。
社会学者の故・清水幾太郎さんは、コーヒー中毒を自認した人だ。それだけに戦中戦後のコーヒー不足はつらかったとエッセーに書いている。戦争で輸入が減り、ついに止まった時のつらさは「終生、これを忘れることがないてあろう」。戦後は焼け跡を歩き回り薄い一杯にありついた。
何とかして豆を手に入れると、うれしくて、出入りの編集者らにふるまった。みんな喜んで飲んだが、帰りに駅のベンチに横たわってしまう人もいたという。何年ぶりのコーヒーに酔ったようになったらしい。一種の飢餓状態だったか。
今は昔、そう思っていたら、気候変動でいずれ世界的に品薄になるとの説があるらしい。代表的な種類に適した産地が、半分以上失われる時期が来るとの見方から、業界には「2050年問題」との言葉もある。増える需要を賄えないのでは、との懸念である。
「まさか」ですまされるのか、「もしや」なのか。そんなことを考えつつ、きょうの何杯目かを口にする。

 天声人語より