わびさび
 近くの河畔まで足を伸ばす。熊を警戒して時刻も午後の前半に限っておく。目の前の山城跡も色づいてきた。感性は鈍い方だという自覚はある。しかしなんなく「わびさび」というような感じ方が、自分にもあるような気分になる。

 どこか負のイメージもある季節だ。しかし自然は実りの季節という面をも見せている。さて自分を振り返れば、老いとか衰えということがぴったりのように思えてならない。

 そこを無理にでも、夕陽に照らされながら、飄々と家路を辿る自分の姿をイメージしてみる。それでいいではないかと思いながら。
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秋は夕暮れ
 「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いと近うなりたるに・・・」と、うろ覚えの枕草子」の一節が、唐突に浮かんでくる季節になった。

 歩いて三百メートルも行けば、戦国末期の山城の跡に着く。しかしこのところ熊の出没がかなり頻繁である。「君子危うきに近寄らず」がよしとして、家の縁側から城跡の山を眺めるだけにとどめておく。

 空が曇りはじめてきたのも歩行中止の理由にして。「それでいいのだ」とさらに理由をこじつけて。
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「日にち」が薬
 思うに暑熱に負けた一面があったようだ。気温が下がり始めるとともに、回復をはかるつもりでの日々を過ごした。このごろはなんとなく調子がいいような気がする。

 明治生まれの祖母が、よく「日にちが薬」と言っていたのを思い出した。不調のときでも、よく食べよく眠り、程よく休めば必ず快復する。「日にちが薬になるのだ」と。不意に脳裏をよぎったことだったが「なるほど、その通りだ」と納得の微笑が浮かんだ。
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片見月
 平安時代のこと、それも貴族の世界の事であっただろう。十五夜か十三夜の月のどちらか一方しなみないことを「片見月」というと聞いたことがある。当時は両方見ないと縁起が悪いとされていたとか。

 さて自分を振り返れば、十五夜も十三夜も置き忘れているようだ。第一、月を仰ぐということもない。せめて夜空を仰いで見るくらいの、ゆとりのようなものを持ちたい、ふと感じた。
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我慢
 耐えることが大切と、雪国育ちなので幼い時から教えられてきた。今回はこの教えが役立った。

 今更繰り返すまでもないが、体調が思わしくない時、自分の程度がわかるような気がした。「じっと我慢の子」であるように努めたつもりの結果が出始めたか。心身の充実度が高まりつつあるような気がしてきた。

 ダメな時はダメなもので、古パソコンがいうことを聞かなくなった。懇意の人が、新品同様の品を貸してくれた。その扱いがよくわからない。移行を含めて無理のない範囲でと思いつつ四苦八苦。

 とにかく、この調子で前向きにと考えるようになっただけでもラッキー。
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