グロリア
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Vol.49  グロリア・エステファン「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」 2011.7.2
 1991年3月30日、ビルボード・シングル・チャートのトップにグロリア・エステファンの「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」が輝いた。彼女の長く苦しいリハビリ生活からの生還を告げた、涙のNo.1だった。
 グロリア・エステファンは、マイアミ・サウンド・マシーンの一員として、長い下積みの末、85年「コンガ」を大ヒットさせて以来、チャートの常連として活躍を続けていた。アルバムを出すごとに人お規模は拡大し、89年の「カッツ・ボス・ウェイズ」では300万枚のセールスとともに好感度も飛躍的にアップ。90年1月には、アメリカン・ミュージック・アワードのホステスに選ばれたり、クリスタル・グローブ・アワードを獲得したり、まさに国民的シンガーに成長していた。ところが、好事魔多し。90年3月20日に事件は起こった。
 グロリアとマイアミ・サウンド・マシーンの面々は、ニューヨーク州シラキューズでのコンサートに出演するため、雪のハイウェイをツアー・バスで現地に向かっていた。ツアー・バスがペンシルバニア州スクラトンにさしかかった時、大型トレーラーと接触。ツアー・バスは大破し、グロリアは背骨を折る重傷を負った。スクラトンの病院で応急処置を受けた後、マンハッタンの病院で4時間におよぶ手術を受け、奇跡的に助かったグロリアは術後の経過も良く、4月4日には退院。再起不能説を吹き飛ばした。
 死も覚悟したというほどの大ケガからの復活。回復力は神がかり的だったというエピソードも伝わっている。背骨をつなぐ金属ジョイントや、筋骨を補強するパイプも埋め込まれ、90年は自宅療養とリハビリの毎日。そして翌91年1月29日。LAのシュライン・オーディトリアムで開かれた第18回アメリカン・ミュージック・アワードの表彰式で、ライブ・パフォーマンスを披露し、感動の復活を果たすのである。
 その時に歌ったのが、アルバム『イントゥ・ザ・ライト』からの1st シングルとなった「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」。復活の喜びを神に感謝するという内容のスピリチュアルなこの曲は、ポップ・チャートのみならず、コンテンポラリー・クリスチャン・チャートでも大ヒットとなった。そして、3月1日には7ヶ月におよぶワールド・ツアーをスタート。それだけに「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」のNo.1は、大いなる壮行会になったと言えるだろう。
 このワールド・ツアーはもちろん大成功。『イントゥ・ザ・ライト』も大ヒットで、92年に発表されたヒスパニック系長者番付によると、グロリアが4560万ドル、ダンナのエミリオが2580万ドル、足して7140万ドルの収入を2年間であげて、番付2位となっている。ちなみに1位は、言わずと知れたフリオ・イグレシアスで、7700万ドル。すなわちグロリアは、あの“ミスター・ディナー・ショー”に600万ドル足らずの差まで迫っていたほどの成功をあげていたわけだ。
 ところで、グロリアはキューバの出身。キューバからマイアミに渡ってきたのは2歳のときである。だからキューバのことはあまり憶えていないというが、キューバの国民は同胞を大事にする民族で、キューバ人はみな兄弟という考え方がある。マイアミのグロリア宅にお邪魔した際に「今日はキューバの友達とパーティー」というからどんな人が来るのかと思っていたら、ジョン・セカダやマイケル・ジャクソンのダンサーやら、ディズニー・スタジオのシンガーやらとともに、近所のおばさんやおじさん、あげくの果てにはエミリオもグロリアも知らないキューバの人という、友達の友達というレベルの知り合いまで押しかけ、大変なにぎわいに同席したことがある。そういったキューバン・コネクションのなかにいるときのグロリアが、アーティストというより世話焼きのお母さんという印象だった。そして、そんなつながりの延長にあるのだろう。フロリダのウォルト・ディズニーにキューバン・レストラン「ボンゴス・カフェ」もオープン。キューバン・コネクションの拡大にひと役買っている。