海外ミステリー史上もっとも有名な被害者がいる。
1926年刊行の『アクロイド殺し』に登場する英国人男性ロジャー・アクロイド。その鮮やかなトリックはいまも輝く。
東京都三鷹市に住む数藤康雄さんは大学院生のとき、その名作で使われている機器に納得がいかなかった。思い切って作者であるアガサ・クリスティー本人に手紙で問い合わせる。まさかの返信が届いたのは1カ月後、文通が始まった。
6年後、会社員になった数藤さんに作家から招待状が届く。キツネにつままれたような気分で英国へ。別荘で会った第一印象は小柄なおばあちゃんが。「お茶や夕食をいただきながら、無我夢中で話した。夢の2日間でした」。
ピンと立った口ひげの名探偵ポアロをひっさげ、クリスティーが作家デビューして今年で100年。『そして誰もいなくなった』『オリエント急行の殺人』など多彩な作品は世界各国で読みつがれ、いまも色あせない。
自伝を読むと、自由奔放な生き方にも引き込まれる。将校と駆け落ち同然で結婚するが、失踪事件を起こす。再婚相手は旅先で出会った14歳下の考古学者。「後戻りはできない。人生は一方通行なのだから」。作中の台詞にミステリーの女王の思いがにじむ。
何を隠そう、当方も小学生のころ、ポアロの名推理に夢中になって以来のファンである。誰がアクロイドを殺したのか、再びページを開きたくなってきた。結末を知っているのに、至高のトリックにもう一度酔いしれたくて。

 天声人語より