佐竹英一 一木に込めた祈り
一木一会
佐竹英一 一木に込めた祈り

SATAKE-EIICHI MUSEUM









 佐竹本人による自伝(立志編)です。

仏師 佐竹英一 小伝はこちら・・・期間限定の公開です

佐竹英一の立志編を含む生涯の伝記


   

   


作品アルバム
不動明王の製作 それぞれの祈り
佐竹英一(さたけえいいち)
(1903~1974)

 佐竹英一は明治36年 愛媛県北宇和郡吉田町(現宇和島市吉田町)に生まれました。昭和5年に中央大学法学部卒業後、彫刻家 加藤正秋 先生に師事しました。  その後は松山市に居を構え、作品の創作を続け、多くの展覧会に出品し賞を受けます。
 昭和33年頃より愛媛県展の審査員を務め県展理事・愛媛県美術会名誉会員などを歴任しました。
 愛媛県久万高原町には「不動尊」の作品を残しています。

 佐竹英一が製作した作品は、主に50歳を過ぎて71歳(没)までという短い製作
活動期間に集中しました。
 その間におよそ650体の仏像製作をしています。
 小作品を合わせると約800点に上る作品を、眠る時間も惜しんで製作しました。



作品アルバム





不動明王の製作

佐竹英一最後の作品となった、不動明王の製作過程を紹介します。


直径1メートルの一本のガヤの木から、彫り出された身長2メートル10センチの不動明王像は、彫刻家佐竹英一(1974年没71歳)によって生み出されました。

 この不動明王は自然休養村づくりをめざした上浮穴郡久万町(現久万高原町)が、その自然休養村の中心となる、畑野川景勝地古岩屋の不動岳へ安置(1975年)したものです。

 佐竹は没年までの20年余り仏像ばかり彫っていました。製作した仏像の数は約650体にも上りました。しかし、2メートル10センチの立像に1メートルの台座が一木という大きなものは初めてのことでした。

 寄木造りは別とし、一木では日本でも最大級のものです。さらに、不動明王の背後にある火炎は頭上の1メートル上に、安置の際の台座を加えると総丈5メートル30センチにもなりました。

 佐竹は常日頃「こんな大作に取り組めるのはこの木のおかげ」と口にしていたガヤの原木は久万町畑野川、住吉神社から切り出されました(ガヤの木の重量は推定2トン、年輪550本)。佐竹は「ガヤは育ちの早い木ではないので、何百年か後のため跡継ぎの植樹をしてほしい」佐竹はノミを入れるガヤに限りなく慈しみの心で向き合いました。

製作から4ヶ月頃不動明王の、あの怒りの顔が刻まれました。「憤怒の相といっても、それは、父親が子どもをしかる時”メェー”とやるあれ。仏像とは、姿のない仏教を追求しているもので、模倣でない限り抽象で、その彫刻は抽象芸術のようなものといえる」と語ったことがありました。

光背の製作を残すのみとなった完成間近、佐竹の死去で、当時仏彫の第一人者といわれた佐々木大樹氏の指導を受けながら、田村宏氏・増田勲氏らが仕上げました。


昭和47年(1972年)12月に直径1メートルを超す、樹齢550年余りのガヤの大木の切り出しから始まりました。


完成間近に佐竹が死去(昭和49年8月)したため、光背の製作については仏彫の第一人者といわれる佐々木大樹氏の指導を受け仕上げることとなりました。



不動明王の全総丈は約5メートルで久万町(現久万高原町)古岩屋の自然窟に納められています。



入魂・除幕式(昭和50年4月3日)は報道でも大きく取り上げられ、当時の新聞には「全国最大級・よみがえった一木造り不動明王」と報じられました。

古岩屋付近は四国霊場四十四番札所大宝寺と四十五番札所岩屋寺の巡拝路にあたり、古くから不動明王がまつられ訪れる人があとを絶たない聖地。不動明王がよみがえった今日も古岩屋にはたくさんの人たちが訪れます。

それぞれの祈り


祖父の思い出。

    赤坂ロイヤルクリニック
    院 長  渡 辺 順 二


 祖父は厳しかった人というのが私の一番の印象である。4歳の頃私は半年間ほど祖父母の家に預けられたのだが、夜テレビを見てるときにウンコを漏らしてしまい、こっぴどく叱られ玄関の外にしばらく立たされたことがある。おそらく幼児の時のその叱られた記憶や厳しくしつけられた記憶が強すぎるため、祖父は厳しかったという印象が強く残ってるのだろう。実際祖父は優しくもあった。小学生の時、彫刻をしてみたいと言ったらわざわざ田舎から大きな彫刻刀を数本送ってくれた。そしてそのどれにも私の名前を漢字のフルネームで彫ってくれていた。そこにはかわいい孫のためという優しい思いが感じられたものだ。

 そして祖父が亡くなったのは私が小学6年生のときであった。夏休みに家族で田舎に帰っていた時だったのだが、その臨終の場面はいまだに鮮烈に覚えている。亡くなる間際呼吸がとまり目をつむり微動だにせず息を引き取ったかのようになった。「おじいさん!おじいさん」と祖母が泣きながら必死に声をかけるとおもむろに目を開けて「おっと、死によった」とだけ口にして再び目をつむりそのまま静かに息を引き取った。そのときは子供心に「三途の川のような生と死の中間のような状態が実際にあるんだな~」と思ったものだ。人の亡くなる瞬間をみたのはこれが初めてだったのだが、そのときにはまさか将来医師になって多くの人の死を看取ることになるとは思いもよらなかった。あと祖父は亡くなる前日の夕方、外がみたいといって病床からわざわざ外の見える場所まで移動して長い間椅子に座って外を眺めていた。死期を悟りこの世界に最後の別れを告げていたに違いない。もっともその亡くなる前日も私は無神経に騒いでいて祖父に「うるさい」と叱らたことがあった。あのときは祖父はさぞ体もしんどかったんだろうなと今でもあれは申し訳なく思っている。

http://homoeopathy-2005.blog.drecom.jp/
http://homoeopathyclinic.room.ne.jp/
赤坂ロイヤルクリニックのホームページです





第72回 香川県美術展覧会(2007年5月) 洋画部門で入選した 酒井調子氏の「一木に込めた祈り」は父の彫刻作品の製作過程を描きました。ノミを打つ音が今にも聞こえそうな作品です。


佐竹英一 一木に込められた祈り

平成22年吉田町秋祭り
11月3日(水)文化の日ぜひお越しください

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この動画は私のふるさとを紹介した、知人の作品「みかんのまち」です。
ご覧いただければ幸いです。